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映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

自由が丘で(2014/韓国)ホン・サンス

アジア映画

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取り落として、取り戻し、いわば「乱丁」となった手紙の束を、女が読み始める。

韓国の映画だが、韓国の映画でないような、ちょうど日本語でも韓国語でもなく英語でつづられたらしい直筆の素朴な手紙の束のように、映画は進む。あるいは、つづられる。

時制をシャッフルすることは、時間進行の一方向的制約を何がしかの物語の意図に沿わせて編み直すわけでもない。あるいはそれがそれでも物語であるとしたら、「過去から未来への流れの中にある現在」という通念を相対化するべくしての物語であって、相対化されることで物語の現在は漠然と宙に浮くことになる。漠然と宙に浮く現在は、過去から未来への通念的な物語の流れの中で意味を消尽されることなく、しかし同時に、あらゆる流れの可能性へと潜在的に開かれた現在として、そこに顕われることになる。

映画はそれでもつづられる。つづられるということは物語られるということであって、しかしあくまで人の手によってしたためられるように、物語られる。時間という超越の観念が全体を当然のように通底するでもなく、ただその時はその時でしかないというような断片化が、しかし孤立化には陥らないように、手紙の束を人の手が一枚一枚繰っていくように、自然に物語がそこに顕われる。

映画の中で、日本人や韓国人や米国人や、男や女やおじさんやおばさんは、韓国語も話すが英語もよく話し、言葉を交わす。母国語でない英語の、言葉の皮膜がいちまい自意識にかぶさることで、それはむしろ緩衝材のようにつかの間人と人とをつなぎ留める。ちょうど断片化した時制が、それでも時間の距離を皮膜として一つ一つのシーンをつつんで映画(物語)につなぎ留めているように。

人の志向は、それでも時間を全体として捉え、それを過去から未来、以前から以後への進行として無意識に見て取ろうとしてしまうから、物語にも何某かの帰結を見い出そうともしてしまうにせよ、今そこにあるその時は、けっして過去から未来、以前から以後への狭間で一義的な意味を担うだけの中間項ではなく、と同時につながりから断絶した断片でもなく、ただそこにある。(「今」はない。「今」でしかない。)

ときに、ふと思い出したようにとくに物語上意味もないようなズームアップ。これは映画なんです、という署名のようにくり出される。映画は映画、という同一律もまた、その時はその時であり、その人はその人であり、という同一律と同様、ただに孤立を意味しはしない。息づく断片としてのその時、その人、映画。