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映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

東京の合唱(1931/日本)小津安二郎

邦画

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小津映画の子供。そこでは子供は文字通りに子―供であって、複数性をこそ生きるものとして描出される。また同時に大人と隔絶したところに子供はなく、飽くまで大人の存在に付随的に映画の画面とその物語の中に介在することになる(やはり子―供)。

この映画の兄妹とて同様で、まず兄と妹の二人という複数性を帯びていること、また飽くまで父母のかたちづくる“家族”の構成員として作劇の中で付随的に機能すること。子供は複数であることによって、内面的な心理の表象ではなく外面的な行動の表象によってその存在を描出することが出来るようになる(兄と妹のありがちなやりとり)。また飽くまで大人の存在に付随的であることで、いわば大人の内面の鏡像として描出することも出来るようになる(大人こそ泣き出したい時に子供が自分の事情で泣き出す)。いずれにせよ、家族という小集団に於いて人物相互を人格的に孤立した個としてでなく相関する個として描くこと、あるいは家族をまさにそんな関係性の磁場として描くに、子供の複数性及び付随的であることは必然的となる。

失業など社会風俗的な時事問題を織り交ぜたらしきユーモア(ペーソス)は、その共時的な同調なくては喜怒哀楽の感覚を共有しにくくある。しかしそれでも時代を越えてそこに参入出来るのは、画面の中に生きる人間が人間の肖像を見せているからだと言う他なく。文字通り火のように泣き出す息子やそれに当惑するしかない父親、またその父親である夫と向かい合いつつしかし互いにもう若くはないとうつむくようなそぶりの妻、家族の中にあって飽くまで無邪気に何事もつゆ知らずという表情を見せ続ける娘(デコちゃん7歳)、あるいはどこか飄々として難しい生計を営みやはり飄々として昔日の教え子達と接する元教師や、各個に自分の道を生きながら旧交を温め合うことを厭わないその教え子達。それぞれに判然たるそれぞれの表情があって、交響的に活かされている。

ときに、夫を窓から見送る妻の慰みにからみあう手元のアップや、ライスカレーにつけあわせる水が注がれるコップのアップや、どうということもないような断片的ディテールが画面の連鎖の中で印象的なアクセントともなる。