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映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

恐怖分子(1986/台湾)エドワード・ヤン

アジア映画

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冒頭の一連の場面、画面の断続が組み写真的に見える。実際カメラを構えてその一連の状況を収めた青年の写真が組み写真的にモンタージュされる場面もあとからあるが、現に映画内で現在進行で推移している筈の冒頭の場面に於いてさえ、画面の断続が組み写真的に見える。恐らく画面内の事物の動向・因果、その時間的な端が寸断されているからかも知れない。いきなり事物は画面内にあり、あるいは動き、そして止まる。そしてそれでもそれが組み写真的でもあるのは、画面相互がやはり連関し合っているからだ(しかし時系列的な必然性を欠いた連関)。相似した運動のモメントを感じられるのは北野武の映画かも知れないが、北野武の映画でははっきり省略が省略として顕在化するのに比べて、ここではもっと運動のモメントはごく微妙に寸断されている。あるいは微妙に寸断されていることがむしろ独特の運動のモメントを生み出している。またサイレント映画的とも言える。サウンドトラックと画面が微妙に同期していないし、画面外の作用で画面内の事物が動揺する(ような)因果のタイムラグもある。(誰もいない室内のテーブル上の空き缶がなぜかひとりでに落ちる。画面替わると廊下の奥で小さな扇風機が室内に微風を送っているのが見える。)

そんなズレをあちこちではらみつつ、画面は人物達の相関を物語っていく。それが顕著に見られるのは、劇中の夫と妻が別居を決める話し合いの場面かも知れない。そこではとくに妻の心情が語られるが、そこで画面は遂に夫の表情へと切り返されることはない。飽くまで妻が自分の心情を吐露し、嗚咽さえして見せても、やはり独白は独白で、夫の表情とは断絶したままだ。つまりそれは対話の場面のようでいて、そのじつ独白を対称させた場面でしかない。夫は夫でその前に妻に何某かの意思を話してはいたが、それとて妻との対話を形成するようには撮られていない(妻の表情を捉まえる画面の切り返しはない)。また劇中、恐らくは都合三度、一度目は出ていく妻を夫が、二度目は去りゆく青年を少女が、三度目は憧れだった少女を青年が、ベランダや窓から何気なく見送る場面もあるが、終盤公私二重の失意を負って会社を出ていく夫の背中を見送る者は誰もいない。誰もいないことを無意識に恨むように振り返るその目線の先に、なんともバツが悪そうに顔を背ける上司の姿があるだけだ。不良少女が寂しさつのってかけてまわっていた悪戯電話の文言が、そのままそれとは本来関係のない自殺未遂の少女の語られざる内心を代弁している(かのような)場面があるが、映画内の事象同士の交錯や反復が、そんな互いに互いを知りもせぬ者同士の意図もされざるコミットを示しもすれば、一方では見送る者とてない者の孤独をあらゆるコミットから疎外された孤独として示しもする。事象と事象の交錯と反復。そこに生じるズレが重なり合っていくことで、映画の物語になる。全篇それ。

昼夜の風光、朝夕のトワイライト、鈍い光陰の輪郭に包まれた80年代台北の空気を画面を横溢する大気のように呼吸しつつ啓示される、映画にしか語ることの出来ない物語。中心化から遠心的に拡散しつつそれでも散逸せずに各自各個に中心化されていく物語。まさしく映画。