映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

万事快調(1972/フランス=イタリア)ジャン=リュック・ゴダール、ジャン=ピエール・ゴラン

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映画(商業映画)を撮る(撮らなければならない)、というテーゼが第一義に立つ。そして、映画(商業映画)を撮るには資金を集めることが必要で、資金を集めるにはスターをキャスティングすることが有効で、スターをキャスティングするには題材となる物語が必要だ、ということになる。では物語はなんとするかと考えれば、ふつうなら愛の物語であろうということになり、而してキャスティングされたスターの男女が役どころを設定され、それがエキストラな役者達の役どころの中に置かれることになる。そして舞台が設定され、時代や社会が設定され、漸く具体的な映画の製作、及び制作へと話は進んでいくことになる。(開巻一番、支払書めくりとそこへのサイン記入の“アクション”の反復は、映像とサウンドトラックだけで軽快なリズムをさえ刻んでおり、映画のオープニングにとても相応しい。)
即ち、第一義として「映画」がある。それは手段ではなく、目的そのものである。演繹的にその大前提からこそ小前提へと話は進み、物語という映画の具体像は組みあげられるであろう、ということになる。しかしそれは、この映画としての修辞法であり、物語はやはり語り出すべきものの為にこそ語り出される。つまりここでの目的と手段は、相互に往還的なのだ。ただ、演繹的なその修辞法は語り出すべきものの為にまず全体の枠組をこそ決定し、決定された枠組の中でこそ細部を活かすのでもあり、その意味では細部は全体の中で相対的に自由な実存を生きることが出来るようになる…のではないか。

なんとなれば、1ショットの横移動で全景を収められる工場社屋の断面セット。それこそはこの映画に於ける全体と細部の相関的な総体図そのものを端的に提示してもいる。イブ・モンタンジェーン・フォンダが社長室をうろつき歩くさまも、声かさなりあう工員達のふざけた歌も、あちこちで散発・続発する奇声や打突音も、それらのゆらめきさんざめく「細部」のことごとくは、間仕切りされた工場社屋の断面セットという「全体」に収められてこそその枠組の中で活かされ、また枠組そのものを活かすのでもあり、それは工場という社会と労働者という構成員との相関的な総体図そのものとして見て取れる。人物達の集団は、大掛かりに組まれてはいるがそれ故に限定されたセットの全体(=全景)の中でこそ、集団を一塊の実存として演じることも出来る。間仕切りされた空間内部でキャメラを据えて画面を構成しようとすれば、何度となくカットを割りつつ空間内部を描写することが必要とされるだろうし、そうなれば集団を一塊の実存として描写することは困難になる。右往左往する人びとのドタバタ劇を物象の力学的動転として描写するには、この大掛かりな断面セットは是非とも必須だった。

大掛かりな断面セットは、コントの舞台でもある。じっさいこの映画は半面としてコメディだと言っても間違いではない。ヴィットリオ・カプリオーリなどワル乗りじみた大げさな身振り手振り口振りのオーバーアクトと判り易い表情で滑稽に社長の俗物ぶりを演じている。その社長を中心とした工員達とのやりとりなど、日本で言えばまだ若い頃のいかりや長介ドリフターズによるドタバタコントに置き換えることだって出来るように見える。その言葉通りの「ドタバタ」はサウンドトラックとしてもヴィヴィッドに耳に響き、奇声や打突音の断続がそれだけで映画の中のアクションの起伏を縁取りもする。大げさな身振り手振り口振りは役者の熱演の賜物でもあり、組合の代表の長演説でさえ、背後の気のなさそうな二人組の表情と相まって如何にも滑稽な独壇場と化している。

半面がそんなコメディ映画なら、もう半面は男女の恋愛映画でもあるかも知れない。それぞれに専門職をもつ夫婦の物語は、どちらかと言えばやはりジェーン・フォンダの肖像をめぐって展開するように見える。なんとなれば演出家ゴダールはやはり男性であって、そしてまた恐らくは自らが男性であること(男性でしかないこと)を彼なりに自覚するところの男性でもあって、したがってその視線はどうしても同性よりは異性へと向かうらしく、だからこの映画でもジェーン・フォンダこそ被写体として見出されることになる。イブ・モンタンジェーン・フォンダが差し向かいで言葉を交わすリビングの場面でも、キャメラジェーン・フォンダの肖像にだけ向けられる。それはやはり「肖像」とでも呼ぶべきなんらかのものであって、人間的なその表情の起伏を見て取ろう(読み取ろう)というよりは、彼女が彼女としてそこに実存することそのものを映し出そうとするキャメラではある。それは工場に監禁中の彼女がふとキャメラに眼差しを向ける場面にせよ同様で、たとえばある映画が数時間かけてやっとメロドラマ的な道筋でたどり着くような女性の正視の眼差しの蠱惑を、ほんの瞬間でさらりと実現してしまう。その呆気ない率直さはいわば天才の仕事だろう(天才とは質で量を凌駕できてしまう才能のことだろう)。恐らく、演出家ゴダールは女性のことがわからないでいるし、わからないでいることを自覚しているからこそ、殊更そこにキャメラを向ける。そこに映し出される被写体としての女性が、しかしその時こそ映画の中ではより美しく見えてしまうらしいのは、彼女が彼女として際立ってそこに実存してしまうからではないか。

キャメラは、横移動を反復する。キャメラの横移動はドリー撮影によってなされようし、ドリー撮影は重労働だからこそこの映画では殊更選択されたのだろう。フィックスで据えられたキャメラが、そこに右往左往する人間集団の群像の枢軸として磁力場を生み出す。スーパーでのドタバタは工場社屋でのドタバタと対応しているのは自明で、それは生産と消費が共に単調な労働の如き人間性の搾取の現場であることの象徴的表現かも知れないが、そんな観念的な理解を逸脱してドタバタはドタバタとして物象的に画面を立ち騒がせる。モブに次ぐモブの中で、二対一だからやっちまえ、というような追走劇の反転なんぞの描写はゴダールらしいユーモアだが、そんな演出の機微を踏まえつつ、映画は集団を描きあげる。キャメラの横移動は、空間の実存をそこに見出させる為のものでもあって、それも最後の場面の横移動に至れば、その場景の無内容に於いてともすればユダヤ人虐殺の「死の工場」への列車輸送の記憶をさえ想起させないでもないイメージ(規則的な軌道上の進行)とも見えてくる。それは、映画的な時間と空間、つまりは映画的な世界表象の原風景でもあって、生きると死ぬるとは、そこにポジネガとして刻印される表裏一体のあつみを欠いた表層なのでもある。労働は人を殺し、同時に生かす。

だからこそ、の、男女の機微の綾は、最後にイブ・モンタンのガラスへのコツコツというノックや、ジェーン・フォンダのガラスに瞬間張りつく五指のひろがりに託される。具体的な逢瀬のつかの間に交わされる刹那のやりとりこそ、男女の機微の綾そのものなのだという洞察は、真っ当にただしく、せつない。