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映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

騎兵隊(1959/アメリカ)ジョン・フォード

洋画(アメリカ映画)

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ジョン・フォードジョン・ウェインはやはりここでもやたらに手にしたものをぞんざいに放りだしたり投げつけたりする。それは確実に意識的な演出で、ジョン・ウェイン演じるマーロー大佐が過去の妻との死別を物語るくだりなどを見ればそのことは明らかだが、ではそのアクションはなぜそのアクションでなければならないかの理由は見出せない。だが言語的には合理的な説明のつき難いそのアクションはそのアクション自体として画面の中では確実に活きている。

放りだしたり投げつけたりする以外でも、蹴る殴るなどのアクションらしいアクションともそれは通底して、総じて言えば自分自身の存在を外に向かって放擲したい衝動のあらわれであるかに見える。ジョン・フォードのキャラクターは決して内にこもることを良しとしない。それはほとんど生理的に拒否されていて、だからその映画のキャラクター達は何がなんでも外に向かってアクションを起こす。そしてアクションは当然リアクションを喚起して、その掛け合いでジョン・フォードの映画は進展する。

コンスタンス・タワーズ演じるハンナがジョン・ウェイン演じるマーロー大佐に恋慕を抱く過程、あるいはその逆の過程とて映画のどこにはっきり見いだせるわけでもないが、南軍の突発的な銃撃に触発されるようにハンナがマーロー大佐に思わず抱きついてしまうアクションだけで、恋慕は呆気なく問答無用で実現される。内的な心理を静態的にセリフや表情に託して表現するよりは動態的に端的なアクションとして実現してしまう。アクションであるからにはその発端は必要で(でなくてはそこに心理的な動機を殊更設定しなくてはならない)、だからこそのアクションは自他の掛け合いの如くに設定されることになり、したがってそれは自ずとキャラクター同士のコミュニケーションの様相を帯びていく。

それ故か、ジョン・フォードの戦争ものはそれでもやはり牧歌的な予定調和を帰結してしまう。南軍の士官学校の生徒達が校長の先導のもと進撃してくる場面でも、そのままなら少年達を戦禍に巻き込む惨劇の場面と化しそうなところが、「子供なんて相手にしてられるか」とでも言いたげなマーロー大佐率いる北軍の呆気ない撤退で、場面は途端に児戯じみた滑稽をかもしだす。飽くまで敵味方にも紳士的友誼に基づいたコミュニケーションが介在していて、よくも悪しくも人間性そのものを否定するかの如きだろう戦場の悲惨には直面しない。そこでは悲惨な筈の無謀な突撃でさえ、ある意味では誇らしげな蛮勇の如くに描出される(戦陣で旗手が倒れてもすぐにべつの人間がなりかわるし、ラッパ手の吹き鳴らす進軍合図は常に方図をつかさどる)。

どのようにしても感傷的な悲劇性を生理的に回避してしまうらしい演出家の性なのかも知れない。