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映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

うつくしいひと(2015/日本)行定勲

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地方(熊本)製作の1時間の小品。

冒頭、橋本愛姜尚中阿蘇山麓の高原を歩いていくシーンからして、これはイメージフィルムなんだと思える。物を語る為にキャメラのフレームの中に被写体を確固としてとらえようとするのではなく、審美的なオブラートの中に映像をくるみこもうとする。事物や人物がそれそのものの実存を生きるのではなく、漠然としたイメージの中に曖昧に漂白する。キャメラはあるいは、その場面では、ロングショットのフィックスなりドリーなりでふたりを映し出すべきだったかも知れないし、ふりかえる橋本愛はクローズアップで映し出されるべきだったかも知れない。しかしもとよりイメージフィルムなのだと思えば、これはこれでいいのかも知れない。(だがそれならば映画=物語に決定的な瞬間がおとずれることもやはりなくなる。)

姜尚中が、演技している筈なのに演技を感じさせず、しかしあられもなく素を露呈しているようでもなく、やはりきちんと演技している。橋本愛は長身のスマートな体躯に丈が長めの服装や髪型が似合っていて画として映える。いわば、橋本愛が湯呑にピンで立つ茶柱で、姜尚中がその湯呑を充たす緑青の茶湯といった塩梅で、ふたりのつかの間の道行きがつづられる。基本イメージフィルムなだけにこれという物語もないまま終わるにせよ、このふたりの肖像がかろうじて映画をたんなるイメージの媒体でない、見るべきものにしてくれているようにも思える。車の運転席からふと女と目を合わせて瞬間よぎる男の何気ない表情の独特さは、ドキュメンタリーの顔をした見事なフィクションになっているように見えた。

ピント送りは、1ショット内で複数の被写体を継時的に物語の俎上に乗せていくための基本的な手管だろうが、その多用もまた作品の世界表象を限定する、イメージフィルム化への操作ではあるかも知れない。