映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

人生は小説よりも奇なり(2014/アメリカ)アイラ・サックス

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熟年のゲイのカップルが同性婚法制化に伴い晴れて結婚するが、それ故に逆にふたりの居場所を失うことになる。

ニューヨークの映画。その街がまずは舞台であり、またその街に住まう人びとの物語でこそあり。必ずしも人影の介在しない、しがないビルの屋上から眺め渡された夕暮の街の点景ショットが織り込まれるところもあるが、そんな点景ショットがさも叙情的に織り込まれるセンスは、恐らく「ニューヨークの映画」のセンスでこそあるのじゃないか。そこここの街角で、人と人とが行き交い、ときに出逢い、また別れを演じる。「ゲイ」と聞けば反射的に唾棄せずにいられないような保守的アメリカンな精神風土は希薄で、しかし一旦具体的な居場所を失うとたちまち路頭に迷う「ホームレス」にもなってしまうような、そんな街(たぶん)。 

ジョン・リスゴーアルフレッド・モリナの交わすスキンシップは齟齬も固着も感じさせず自然に演じられ、ふたりが長年の連れ合いであることを素朴に表現する。そのスキンシップは大事なものとして、けっして演出上粗略にあつかわれてはいない。むしろ居場所を失ったふたりがそれでもよすがとするのは、その束の間のスキンシップなのだから、それは当然でもある。添い寝し、抱き合い、見つめ合い、グラスをかたむけ合い、同じタイミングでひそみ笑いし、やはり抱き合い、口づけを交わす。要するに、ふつうの恋人同士が交わすスキンシップだが、それをごく当たり前に熟年男性同士に演じさせて、自然に見せる。

挿話として大して劇的な展開があるわけでもない(それこそ「奇」なことなんて何もない)。あくまで日常的な風景の中での出来事の起伏がつづられる。しかしそれでいて欠乏を感じさせるわけでもないのは、描写自体はしっかり物語の起伏を画面に刻印しているから。
居候の身の居場所のなさに居たたまれなくなったアルフレッド・モリナジョン・リスゴーのもとへ不意に訪ねてくる場面では、アルフレッド・モリナは雨に降られてびしょ濡れで現れ、そのびしょ濡れのアルフレッド・モリナジョン・リスゴーは何も言わずにきつく抱きしめ、また抱きしめ返されることで、ふたりの心象の切実さがそこに見えてくる。

また映画の中でふたりの最後の共演となる場面では、まず無人の路地を歩いていくふたりの後姿を映し出し、そこに何気ないセリフのやりとりをかさねることで、小さくなっていくふたりをつつむ寂寥感がその後姿と共に見送られる。そしてそれにつづくわかれ際の場面では、画面はゆるやかにしかし確実に暗転して、そのわかれがふたりの最後のわかれであることを静かに暗示する。

あるいはジョーイ少年がひとり階段の踊場で落涙する場面では、嗚咽する少年の傍らの窓の向うでストリートの街路樹の葉が風にそよいでいて、ざわめく少年の心象を可視化しているかのようにそこにごくささやかに見出される。それらはごく何気ない配慮ではあるが、そんな画面演出の繊細さこそが映画に言外の情緒を吹き込み、即ち映画を物語として活かすことになる。

それはだらしなく曖昧な共感を強迫する悪しき感傷的な演出(彼我の懸隔も曖昧なままに感受性の同一化を強いる演出)とは似て非なる、人と人との切実な肌合いをこそしっかり見つめようとする確かな演出の眼の賜物と思われる(画面の中のイメージが物象的な輪郭をまとって何気なくとも掛け替えもない離合を演じることになる)。

ふとガス・ヴァン・サント小説家を見つけたら』を想起しないでもない、街路のラストシーンに於ける画面の晴やかな開放感。あれも「ニューヨークの映画」ではあった。