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映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

最後まで行く(2014/韓国)キム・ソンフン

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たんにタイトルにひかれて見る。韓国で5週連続ナンバー1ヒット、とのこと。

基本サスペンス映画の筈が、その展開がことごとく間抜けに見えてしまうのはなぜなのか。

つまるところ、やはり1ショットへの意識の弱さが欠陥なのかも知れない。カット割りは無駄に矢継ぎ早でせわしないが、それは見る者の視線を錯綜させて誤魔化すためのものではあっても、けっしてサスペンスの瞬間を正視させようとするものではない。その脚本に於いて人物が規範をあっさり逸脱して焦慮に安易に身をゆだねてしまうことも、また演出に於いて小道具が筋立ての流れを分かつような活かされかたをしないことも、つまりはその意識の弱さに由来する。サスペンス映画でも、1ショットで捉えられる事物なり人物なりのアクションなり肖像なりが、物理的な感触でもってショット連鎖の中で機能しなければ、映画はたんなる芝居映像にしかならない。

たとえばある場面。時限爆弾をかかえた車がそれを仕掛けた主人公の意思に反してバックして戻ってくる。その交錯の瞬間がなんらのサスペンスをもはらむことなく、たんに間抜けなコントのように見えてしまうのも、そこで車と主人公の交錯する時間と空間の相関をなんら具体的にショットの中で描出せず、もっぱら俳優の焦慮の演技とセリフにしか画面が注目していないからで、そんなことでは筋立ての行き当たりばったりが本当にそのままの行き当たりばったりにしか見えてこない。

映画の中で、画面の中で、事件が起こる。あるいは、起こすのはいい。けれどそれにも、そうなるべくしてそうなるという演出の段取をつけない限りは、たんに何かしらの事件が起こるだけで、そこに所謂サスペンス=宙吊の感覚は生じないのではないか。それこそ「宙吊」と言うのなら、事象の可能性を宙に吊ってみせるための支柱こそが必要で、それは必然性の異名でなければならない。必然性の支柱に吊られることで初めて事象の可能性の偶然性が有意味に担保されるわけで、必然性の支柱の立脚(あらゆる意味での演出)に乏しいこんな映画は、じっさいたんなるコントの連鎖でしかないように見えてしまう。

ともあれ、逆に言えばそんな映画を支えているのは、だから出演している俳優たちのあくの強い表情なのではある。いつも思うが、日本の凡百の俳優連よりなら、韓国の凡百の俳優連のほうが、滅法喧嘩がつよそうだ。悪く言えば田舎の高校生の不良みたいな熱演だが、そのぶん個性があって、皆が皆、その人がその人の顔をしている。それはあるいは、現在に続く韓国社会のよくも悪しくもの土着性(この映画に描かれたような公職汚職の温床となるような社会性)の輪郭そのものなのかも知れないけれど。