映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

ハッピーアワー(2015/日本)濱口竜介

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キャメラの前にある(いる)のは、あるいは画面の中に映るのは、本来私たちが思うところそのままの「人間」なんかではない。それは人、人、人の肖像でこそあって、むろん抽象としてのイメージでもなく、それ自体として実存する何ものかとしてそこにある(いる)。それをそのように断じてしまえる、あるいは断じてしまうべきであるのは、何よりキャメラが人間ならぬ物理的機構でしかないからにほかならず、したがって映し出される画面も、本来人間の眼に映る事物そのままの素朴な表象なんかではないという、そのことに拠っている。

この映画の中で人間達の姿は、しかし私たち人間としての視聴者が慣れ親しんだ人間達の姿でこそあって、ほとんどの場面でそれは如何にも尤もらしく各自の人物を演じる人間達の姿なのでしかない。それは5時間ちょっとの長尺の映像を通して各個の演者が各自の人物を自身の中に落とし込んでいく過程を見せられるワークショップのドキュメンタリーのようでもあり、実際順撮りで制作されたのじゃないかと思えるように、作品の終盤に至るほどその人の顔がその人の顔として定着していく過程をこそ感じさせられることになる。だがそれは、恐らくキャメラの前にある人間の存在を自明視することではじめて成立する過程なのじゃないか。キャメラの前に人間がいて(あって)、動き、あるいは動きをとめること。画面に現れて、消えること。その否応もない動態の実存を自明視することで、はじめて「演じること」のドキュメンタリーは成立する。それはキャメラの前の人間の存在を自明視すると同時にキャメラ自体の存在をも自明視することであって、そのなかで人間が人間になってみせても、その意味でそれは当然のことなのじゃないか。

キャメラが人間を捉えられるのは、本来飽くまで言葉そのままの意味で「肖像」としてでしかない。姿形だけでしかキャメラは人間を捉えられない。それは言葉がけっきょく言葉でしかなく、世界そのものを素朴に表象しないありようと反面的に通じている。言葉が世界そのものを素朴になぞるものでないように、キャメラは人間の眼に映る世界を素朴になぞるものではない。だとしたらキャメラは人間を飽くまで被写体として捉えることに本来があって、少なくとも人間もキャメラ自体をも自明視することに於いては、「演じること」のドキュメンタリーは撮れたとしても、人間とキャメラとの相関をそれ自体として顕在化させるような本来ありうべき「映画」は撮れないのじゃないか。

この映画の中で、演者の目線とキャメラの視点とが交錯する瞬間は幾たびかある。それはたんに正面からのショットが撮られたというにとどまらず、演者の目線がキャメラの視点と睦び合うように交わる瞬間でこそあり、じつのところそれこそが本来の映画が映し出すべき画面、その瞬間なんじゃないか。たんに人物がキャメラに向かって目線を投げかけてくるだけなら、その目線は匿名的な視聴者一般に向けられた抽象としてのイメージでしかないが、人物の目線がキャメラと睦び合うようなそれは、確かにキャメラを越えて視聴者を被写体としての人物と結びつけるのだし、結びつけることによって映画=物語がその瞬間に真実に化け遂せるのでもある。それは果たして、「演じること」のドキュメンタリーではなく、演じること“そのもの”の露呈だろう。