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映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

キャロル(2015/アメリカ)トッド・ヘインズ

洋画(アメリカ映画)

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描き出される物語、つまりは世界、その中心となるふたりの女性こそが画面の中心ともなれど、総体の印象からすればキャメラはふたりの人物、その肖像に接近しすぎているようにも思われ、いわばこのふたりが比喩的にも実際的にもその時その場でどんな世界の中に実存しているのか、直観的に把握できるような画面が無いように見えた。

見ている分に、壁越し、ガラス越し、窓越し、あるいはカメラのファインダー越しといったていのなんらかの“フィルター”を介して成立する構図は確かに多い。だが平面的にしか見えてこないそれらの構図は空間と人物との相関を表象しない。空間を画面に把握するにせよ、それは平面的に構図の仕掛としては機能していても、空間自体としての実存を見せることは結局ない。空間があって人物がいるという把握がなされなければ、構図は構図の為の構図として印象されるだけで、世界の表象であることをやめてしまう。あるいはシーン毎の編集に際しても、脈絡として人物の主観的な印象の流れにこそ依拠する形になっていて、客観的な時間の流れを組み込む細部が画面に挿入(媒介)されるようなこともない。アップでもロングでも、人物の介在しないショットがどれだけあったのか。

人物の肖像こそはモチーフとして確かにそこにある。しかしそれが空間や時間の実存的な流れの中にこそ際立つ存在として映し出されることは結局ない。だいたいふたりが初めて互いに見知らぬ者同士として遭遇する決定的な筈の場面に於いてさえ、それは回想的なフラッシュバックのショットとして実際の物語上の流れの前にイメージ的に先取されてしまう。その先取こそは象徴的で、この映画は脚本の作劇全体が入れ子構造的に円環をなしていて、全部の場面が予定調和的にふたりの関係を描き出してしまうのでもある。なるべくしてなる、とは時間的に既に取材が完了した素材でだけ画面を編み出さねばならない映画という表現に於ける基本的な枠組だろうが、なるべくしてなる、その瞬間はやはり掛け替えのない運命的な瞬間として見る者に体験され得るのでなくてはならず、予定調和的な円環の中でだけそれを映し出そうとするこの映画が、その運命的な瞬間を見る者の目にゆだねてくることは結局ない。ケイト・ブランシェットは何故あれほど不安に陥ることなくルーニー・マーラを愛する(?)ことが出来るのか、ルーニー・マーラは何故それほどケイト・ブランシェットに惹かれ続けるのか、画面を見ていて言外に腑に落ちてくる瞬間があったのか。

実存的な動揺を介さない確信の素振は素振でしかあり得ず、見る者を本当の意味で動揺させることもない。動揺させることもないならば、確信に至る過程を内なる心のドラマとして見る者自らが体験することも結局ない。つまりそれは、飽くまで動態的に実存する〈魂〉を映し出す「映画」であるというよりは、静態的に予定調和する一幅の「絵画」でしかない。