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映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

旅情(1955/イギリス=アメリカ)デヴィッド・リーン

多国籍映画

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映画が始まると、海上に伸びる線路上を鉄道が走っていく図。それだけで俄かに映画は映画づく。ヴェニスの街につけば格安運賃の「バス」で行く水路からポーターの案内する裏道じみた狭い路地を経て、ヒロインは宿に着く。観光映画。ヒロインは列車の中にいる時から盛んに手持ちの8mmキャメラを廻す。フィルムが切れれば遂次交換。彼女がそれを廻し続けるのは、何より彼女が映画のような物語をこそそこヴェニスの街に暗に期待してのことだった、かも知れず。

 

映画は、もう若くないヒロインの、それでも時に夢見がちに浮遊する視線を何げなく映し出す。映し出されるその視線は、しかし何者とも交わらない。いきずりに出会った中年男は夢見がちに想い描いた出会いの相手とは足り得ず、けれど何事も起こり得ない現実を寂寥かこちつつもち帰るにも堪え難い(もう若くない)ヒロインは、ともすれば諦念に基づいた軽蔑のなれ合いを誘うようにも聞こえる男の言葉を受け容れる。二人はしかし、映画の中ではけっして本当の恋人としては描かれない。なんとなれば映画のキャメラは対峙する二人を飽くまで傍らから映し出すのみで、けっしてその視線の交錯(二人だけの世界)への不可能な接近を試みようとしないから。つまり画面は二人の表情をけっして切り返そうとしない(自分の記憶が確かならば)。それだけで、つまり二人の間柄は飽くまで疑似的なその時その場限りのラブアフェアでしかないことが映画として示される。

 

だが、それで終わればただそれだけの話で、物語にも映画にもならない。映画はようやく最後の最後にやっと映画になり遂せる。来た時と同じく列車で発とうとするヒロインを、まず少年が見送りにくる。そこで少年とヒロインの表情はきっちりと切り返す画面で互いに交錯し合う。それは少年とヒロインにきちんと真情が通い合っていたことのあかしとなる。そしてまた最後の最後に彼はあらわれるべくしてあらわれる(しかしやはり「あらわれた!」と感じてしまう)。既に走りだした列車に彼の足は遂に追いつくことはないが、しかし懸命に手に掲げたそれが、暗に彼の姿を追い求めていたヒロインの目に留まることで、むしろ伝えられるべきものは確実にヒロインの心の奥に伝えられることになる。そこでもやはり、それを手に掲げた彼の姿とそれを見とめるヒロインの姿が辛うじて切り返されることで、二人の間柄にも真情が通っていたことが映画として示される。

 

列車に始まり列車に終わる。この列車による別離という場面選択は、単にありがちである以上に、この映画=物語の演出上絶対的に正しい(こうであらねばならない)。届きそうで届かなかったのではなく、一見そう見えても、むしろ届かなかったことによってより深くそれは届いた。列車という、遠心的な距離感を産み出す装置あってこそ、その逆説的な(映画的な)表現は成立し得た。

 

水の流れに何かを浮かべ、そこから(そこへと)キャメラを廻すその感覚もまた、リュミエール由来にやはり正しい感覚だろうし、即ち美しい。

 

ところでしかし、こんなメロドラマが成立し得たのも、時代が55年当時だったからとは言えなくもない。現在ならば男女として知り合った二人は親しくなれば互いの個人情報の交換でもするだろうし、となれば海を隔てたとしても一時のラブアフェアでなく関係は続くかも知れず。少なくともこの映画のような物象的な別離の演出は基本的に無効にならざるを得ない。