映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

無伴奏(2015/日本)矢崎仁司

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「DESIGN」とタイトルされた方眼のノートが開かれるところから始まる。なぜ方眼なのかは最初から最後まで判らない。そこに成海璃子演じる女子校生が何やら日々の出来事への印象なり思案なり、あるいは発想したイメージなりを徒然に綴っていくが、方眼の頁はそこかしこに妙に余白を残したまま消費され、ついぞ文章としての緊密な記入など意識されないままノートは記述に埋没していく。そのノートの記述の雑駁さは、あるいは映画のキャメラに判然とその内容を写し撮らせるための仕儀だったのかも知れないが、所謂日記帳と言うよりは自由帳にちかいそのノートの表情に表出されているのは、成海璃子演じる女子校生のいい意味での内面の多彩な雑駁さそのものだったかも知れず。

実際、この映画で最も画面に映えているのは、成海の肖像そのものであるかに思える。キャメラを向けられても物怖じすることもなく、こびへつらうこともなく、また斜に構えるようなこともなく、つまりそんな心理的なポーズを見せること自体意中にもないまま、当たり前にキャメラに正面から向き合うことができてしまう。かと言ってキャメラの向こうを殊更見つめ返そうとするでもなく、いわば生のままの表情でそこに居ることができる。

物語の筋書は、だからそんなどことなく超然とした素朴さで画面の中に実存する成海演じるキャラクターを主人公とする限り、時代物のようでいて時代物になりきらず、心理的屈折のドラマのようでいてそれにもなりきらない。原作に依拠したものかも知れない脚本は、むしろ粉飾的に細部の意匠やセリフに凝ることでそこに何某か意味ありげなニュアンスを込めたかったらしいが、作劇の中でそれらが物語としての地盤に定着しているようには感じられず、また画面そのものを前にしても、茶室の暗さや竹藪の明るさなどは視覚に残像するイメージだが、映画の肌理と言えるほどそのコントラストが全篇の画面に定着しているようにも感じられず。

映画は、事物にせよ人物にせよ、その即自的な存在自体をあつかう媒体かと思われ、心理主義的な粉飾は、映画がキャメラに事物なり人物なりを捉えるそのありようを自明視するうえでしか成立しない。この映画に接していて頻りに(とくに後半)想起されたのは、同じ矢崎監督の『三月のライオン』で趙方豪がラストに見せていた、じつにぎこちない懸命な笑顔のことだった。映画が物語として本来主題的に描出しようとするものから半ば逸脱するそんな細部の露呈こそ、じつは一本の映画を掛け替えのない実在にしてくれるのじゃないか(たとえばこの映画の成海璃子には、もっと呆気羅漢とした笑顔でも見せて欲しかった)。

ひと一人直接に犠牲にしておいて、その全ての成り行きを徒な感傷に曖昧に回収して都合よく「物語」に収拾してしまおうとする作劇は、どうもこころざすべきものの輪郭が判然としない。最後に成海は「無伴奏」の看板なんて無視して通り過ぎてしまうべきだった、という感想も見かけたが、そんな評言にも確かに肯ける。