映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

ヘイトフルエイト(2015/アメリカ)クエンティン・タランティーノ

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西部劇に出てくるコーヒーは、多分大方ブラックなんだろうが、その液体のディテールなんぞが描写されることはごくまれなくせに、大抵の映画で大抵の人物が口にするし、そして結構頻繁に「これがコーヒーかっ(こんなもん飲んでんのかっ)」ってな感じで無下に吐き捨てられたりする。この映画ではそれが一つのキーアイテムになって、人物達に豪快な血反吐を吐き出させることにさえなる。

口にするものと言えば、この映画では木製の碗に盛られたごてごてしたシチューもある。何を煮込んでいるのかもよく判らないごてごてしたシチューを、人物達は美味そうに…と言うよりはがっつくように黙々と口元へ運ぶ。このシチューもまた大事なアイテムとしてミステリ仕立ての筋書の中で一役買うことになる。

人物達を隔て、あるいは結びつける、ドラマを生起させ駆動させる為の装置やアイテムが映画に満載されている。大前提の密室状況を作り出す猛吹雪は無論、6頭立ての馬車、離れの馬小屋、隠れた看板、扉を打ちつける板と釘、地下室、主人お気に入りの椅子、チェス盤とチェス、床に落ちたジェリービーンズ、悪漢の一人がなめる飴、賞金首と賞金稼をつなぐ手錠、リンカーンの手紙、そして何より各人に携えられた銃。

密室状況という箱庭の中で具体的な手つき、身ぶり、口ぶりでそれらを使役し、往来し、言及し、催促し、潜伏し、また座り、指し、踏み、渡し、外し、読み、撃つ。セリフの意味のやりとりが映画=物語なのではなくて、それら細部の表情のやりとりこそが映画=物語になる。密室劇を構成する為に設えられたそれら細部が世界観のリアリティともなり、同時に映画自体のリアリズムとして作劇を構成する。

粘液質の血液がどれだけ吹き散らされようとも、肉が裂かれ骨が砕けようとも、あるいは言葉が精神を強姦しようとも、それらが抽象のイメージだけの産物に堕すことなく、素朴に映画=物語足り得えているのは、それらが飽くまで具体的媒介を伴って描出されていくからだ。名詞(事物)と動詞(アクション)、その結果としての形容詞(イメージ)の関係を映像の中で律儀に構成し続けるからだ。