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映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

秋日和(1960/日本)小津安二郎

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見れば見るほど精巧な工芸品みたいな映画。

まず脚本の妙。やりとりされる言葉が細やかな反復や倒置で修飾されるが、役者さんがたの台詞を発する声の抑揚だけで何度見ても可笑しくなる。美人連を前にやにさがるおっさん三人組の確信犯的に描出されたいやらしさが、やりとりされるセリフの呼吸一つで滑稽、愛嬌こもごも表現される。いやらしさに湿度が希薄なのは、三人組が自分達の年甲斐のない児戯じみた画策に大した疑念も抱かないまま邪気もなく行動するからかも知れず。またセリフに何故か「大●組」だの「メ●ソレータム」だの具体的な商標名が挿入されるのは、タイアップなのかなんなのか判らないが、セリフに生々しいアクセントを加えることにもなる。商標名と言えば、何気に画面の端に映りこんでいるビールの瓶や箱にはしっかり「ア●ヒビール」の表記があるし、また現実のそれでなくても、劇中の飲み屋街の種々の看板なんぞは如何にも原色鮮やかなとりどりの色合いで画面のすみずみに配置され、その具体的な架空の店名なんぞをごまかしなくそこに示す。これらはしかしこの映画に限ったものでもない小津映画の顕著な特徴だろうが、逆に言えばこの映画でもその工芸品みたいな精巧を見て取ることが愉しみの一つにはなる。

画面の演出は、一枚の画面が一枚の絵画のように切りとられているかのように見える。しかし絵画と言っても必ずしもその一枚に複雑な含意のこめられた自己完結したイメージなんぞではなく、むしろその叙景的な素朴さからすれば一種の窓の如く機能する絵画だと言ってもいいのかも知れず。蒼い夕景を背にして黒いシルエットとして(障子と障子の狭間に)浮かぶどこぞの橋のショット(ふと杉浦日向子が漫画で描いて追った井上安治の素朴な叙景画を思わせる)が、その橋の昔の姿を描写したものだろう壁掛けの絵画のショットにつながる。窓のように枠組の中に囲われる空間表象はそのまま絵画的だし、同時にミニマリスティックという意味では日本的な観念の表出でもあるのかも知れず。頻出する奥行きある廊下や座敷の無人ショットは、たんに奥行きだけでない、空間を間仕切りする襖や柱の枠組が必ずと言ってよい程構図の基幹をなしている。なぜそのようでなければならないかは判然としないが、それであることによって画面の断続のリズムを産んでもいる。それら静態的なショットの空間表象はそれ自体としてはたんに断絶したイメージに過ぎないだろうが、そこにはやはり必ず人物が横断したり進入したりすることで、次の動態的な画面へと連続するように仕組まれてもいる。また何気なく壁に映ずる水面の反射光のゆらぎも、画面をたんに静態的なイメージには留めて置かない。

そのような空間表象に積極的に加担するものにサウンドエフェクトもある。その時々の場面ごとに様々な生活音が人物達の周囲を何気に活気づかせているのが耳に入る。無音にならざるを得ないような場面でも、その時こそは素朴なリズムを刻む軽妙なサウンドトラックが場面の空気を暗に演出してしまう。本来なら神妙な場面かも知れないのに、軽妙なサウンドトラックが挿入されることで、じつはさしたる問題もない場面としてその場面を規定してしまう。サウンドエフェクトは、その場ならその音がするだろうというたんなるリアリティ志向であるよりは、サウンドエフェクトの豊かさそのもので以て画面内の場面を彩るべく配置されているように聴こえるし、それは画面内にその陰すら見せない事物の音が挿入されていることでも判然としている。

この映画の原節子は、ほんのちょっとした瞬間にふと素(す)のような表情を垣間見せなくもない。司葉子と食堂で食事をしている時のビールの残滴を呑む仕種や、やはり司葉子と電話する時の何気なく会話する仕種。普段の小津映画の中ではかなり“御堅い”だけに、印象的。
それと、サイレント時代の小津映画で明朗二枚目を演じた岡田時彦の娘の岡田茉莉子が、おっさん三人組を翻弄する若い女子の役で活躍する。小津さん撮っていて愉しかっただろうなあ、と思う。