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映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

晩春(1949/日本)小津安二郎

邦画

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原節子のほんの微妙に斜視がかっている面貌を最も際立たせて映し出したのはやはり小津映画なのかも知れず。何しろ顔が怖い。表情が一見笑っていても、どこか小津映画の原節子は(言い古された言い方に寄るなら)「永遠」性に超脱している。

そう感じられてしまうのは、観客と目線が合うようでいてそのじつ合わないからじゃないか(ローアングルでは誰でも目線は合うわけではないにせよ、原節子のそれはとくに際立つ)。観客がはっきり気がつけない次元でキャメラ(観客)と目線が合っているようで合っていない。画面(観客)に向かって正対しているようでいないように面貌の印象そのものが(言わば)“ずれて”いる。だから、むしろ原節子がふつうに人間的に見えるのは、沈着した面持ちの横顔から、かなりきつい目つきで話相手のほうを振り返る仕種をして見せる、そんな時の表情のほうなのではある。この横向きのバストショットから振り返るショットは随所で何度も繰り返されるが、そこでの原節子は画面(観客)から見て微妙な斜視が感じ取れない角度になるためか、きつい目つきで瞥見をくれていてもふつうの意味でのきつい表情に見える。だがこれが小津映画の人物の定位置と言える正面からのショットになると、原節子の肖像は肖像そのものとして超脱したまま人間の言葉を話し始めてしまって、それが観客には意識しにくい次元で浮世離れした肖像のように感じられてしまうのではないか。

また浮世離れと言えば、父親役の笠智衆も勿論その通りで、ほとんど鉄面皮とも言えるだろうその頑なな(?)までの笑顔の肖像が、そのまま原節子の肖像と拮抗する。「永遠」とは、少なくとも映画の中では目に見えない抽象なんぞではなくまがいもなきあられもなき具象なのだった。だからこそ笠智衆原節子に「一世一代の嘘」をつく場面の切り返しは、瞬間に火花散るような切り返しと化す。物語がドラマの真実を宿す瞬間に、その表情は内面を代替せず、肖像と肖像が拮抗する画面の連鎖だけが立ち現れる。

実質的な最後の場面、笠智衆は、そこではごく当たり前に沈着した面持ちで独りうつむく。娘を失い孤独になった男の肖像が、しかし映画の中でも最も人間的な表情に見えるのは、男がその父親の役を鉄面皮の笑顔に託して映画の中で演じ通していたからこそだったように思える。(笠智衆の回顧に於いて、その場面で小津が珍しいことに「慟哭」という激しい演技を要求したという話は、その面持ちの由縁を裏づける話ではある。)