映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

右側に気をつけろ(1986/フランス=スイス)ジャン=リュック・ゴダール

f:id:menmoku:20170208095359j:image

 

「映画の一番の重労働は運搬」。ゴダール演じる「公爵」は銀色のフィルム缶を手に携えて運ぶ。86年当時はまだ映画=フィルムだった。神代辰巳『濡れた唇』の冒頭、若い男が自転車にフィルム缶を乗せて運んでいるイメージは、映画素人でしかない自分にも如何にも「映画らしさ」を感じさせたが、映画がそんな具体的な自らの正体のイメージを素描することを欲するのは、それだけ映画という媒体が神話的イメージに肥大化することをその本質としていたからこその逆説なんだろう(それもまた既に昔日の物語かも知れないが)。映画は媒体でこそあって、それが媒介するのはそれ自体は抽象的なイメージなのであって、媒介されたイメージは神話的イメージに肥大化することで初めて映画を産業として成立させる、という循環的な構造。だからこそ媒体であるフィルムの「運搬」はその具体的な媒介の過程そのものということになる。

引用に基づくらしい文言なり配役なり、あるいは映像に重ねられていく断片的なサウンドトラックなり、それらはしかし、表象の向こうに想定される意味としてはじめて浮き彫りになるというよりは、表層それ自体の響きなり動きなり、あるいは調和と不調和の連なりとして、即物的にあみあげられていることの面白さで見せる。実際、恋人役の男女にそれらしい演出を与えて演技を求めて尤もらしい芝居などさせるよりも、引用された詩句を交互に肉声で呟かせるほうがずっと直截に響いてくるのは確か。「公爵」や「男」が奇態な動きを繰り出しても、呆気なくなんの由縁もなくただそのままに動いてみせる。心理的な“裏”を感じさせない率直、素朴なアクションそのもの。サウンドトラックと映像の調和と不調和は、しかし本当にそのもののバランス感覚の賜物で、そのもの自体を言語的に弁別するのは難しい。取り敢えずひとつ言えるのは、それは飽くまで適合し合うというよりは拮抗し合っていてこそバランス感覚が保たれるということ。いっぽうがいっぽうに阿れば、それは忽ち退屈なシロモノに堕す。

編集は速い。速いが、ある一瞬のカットを見逃せば、確かに何かを見逃したことになってしまうだろう切実な速さ。誤魔化しとしての速さではなし。

表情を造らない人の素の貌の美しさを知っている(男女問わず)。表情というよりは「肖像」を撮ってしまう。それは本当に、文学的な比喩としてではなく映像の具体像としてそのように撮られている。そんな中でのレ・リタ・ミツコは、やはりどちらもいい貌をしている。若者の貌。ランジェのシシャンへの何気ない視線の滞空時間には自然な愛着の素朴さが息づく。

ブルーレイ付属の予告編。ゴダール本人の編集かも知れないが、本編で使用されていない断片をかなり投入したか、あるいはそれだけで全編構成されているかに見える。本編のあとに見ると、本編から食み出した徒っぽい色気みたいなものさえ感じる。