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映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

俳優 亀岡拓次(2016/日本)横浜聡子

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行き成り始まる。さあ始まります、という前口上抜きで唐突に始まるだけで、もうこの映画がそういう映画だと判る。それがいいんだ、それこそ映画なんだってのは、趣味の問題か倫理の問題かはわからんが、ひとまずそれでこそと感じる観客がいるということは正しく言える。
で、続く画面の主役の演技が、実際これはほんとうに映画なのだと割りきったような活きた画面の中で、違和感覚えるようにまどろっこしくしつこいな…と見えたら、確かにそれは「まどろっこしくしつこい演技」の演技なのだった。つまり演出。あるいは、それに続く居酒屋での俳優亀岡拓次を含んだ男女三人の会話の場面、画面が三人各自を各個に映す。殊更カットを割って繋げて見せる。なんでもないその画面の連鎖が、微妙に奇妙なずれた感じを抱かせたように思えたのは気のせいか。会話だけだらしなく撮ろうとすれば撮れてしまうところを敢えてそうする(ように見えた)。またずれるというのなら、音がずれる、あるいはだぶる。どんぐりの韓国映画の話をしている俳優ふたりの背後で中国語(?)で何か会話してる顔も映らないふたりのマッサージ師だの、あるいは場面自体の進行には直接関係しないどんぐりころころの歌だの、そのずれる、だぶる感覚は映画の物語の虚構性を暗に示すことで、むしろ映画それ自体の体験の真実性を証する。

確かに映画の中には時間とか空間とか言いたくなる現象・事象が映りこむけれども、この映画はそんな時間も空間もあまり生真面目に、少なくとも現実的な理解や了解のもとには捉えない。映画ではあれど、しかし実際に画面に映されるのは俳優亀岡拓次の心象がセリフに寄らず抽象的イメージの元に展開される舞台劇みたいに見える。俳優亀岡拓次が仕事の現場としてどこに行っても、どこででもあるようなそことしての抽象的な曖昧さの中に画面の中の空間は埋没する。つまり逆説的に言えばこの映画の俳優亀岡拓次はどこにいてもそこにいない(吹けば飛ぶよな、左手で書かれた覚束ない文字のサインの如く頼りなく…)。空間が抽象化すれば自然時間も抽象化する。時間が抽象化すれば物語はあると言えばあるがないと言えばないかの如くに無時間の中で散文化する。

そこに、一つの具体的なイメージが画竜点睛のように配される。花束だ。場末の居酒屋の隅の座席の上に置かれたままの花束。目当の女にさえ恐らく気が付かれても気が付かれないふりで放置されたままのさえない花束が、ささやかな俳優亀岡拓次の存在の痕跡として画面の片隅に遺される。あれ、持ち帰ったら話にならない。というか、話が終わらない(纏まらない)。だからあれはあそこに置かれたままでなければならない。あそこに置かれたままの花束は、しかし俳優亀岡拓次の確かななけなしの活きた行為の痕跡ではあって、それを誰の目でもなく映画の目だけが捉えていることが、つまりこの映画の性格なのであって、性格とはつまり倫理を趣味として(趣味を倫理として)自ずから生きざるを得ないことであって、そういうこの映画は悪くない。(そして性格とは才能のことだ。)

劇中で幾度も展開される映画や舞台の劇中劇は、ぶつぎり挿入のようでいてその実しっかり俳優亀岡拓次の心象の物語の中では繋がっている。繋がっているが俳優亀岡拓次その人にはじつははっきりした(心理的)表情はなく、飽くまで劇中劇自体が心象の形姿として展開される。だからたとえば時代劇の中で帯刀した侍が体をひねって歩いてたって大した事じゃない。むしろそれらの場面で重要なのは、三田佳子山崎努演じる重鎮のまこと重鎮足る実存的な(やはり心理的ならぬ)表情であって、それもまた何かしらのなまじのリアリティよりは存在そのもののリアリズムで場面を真実なものにする(山崎努は黒いサングラスを外さず、三田佳子は黒に充たされた舞台に立ち暗がりの中に去っていく)。

ラストシーンで、俳優亀岡拓次はこれもどこなんだかよくわからん砂漠の中(海外らしいが…)、風に吹かれて消え去りそうな足跡を遺しつつ画面から退場していく。その消え去りそうな足跡をそれでもしっかり捉えているのは、やはりほかでもない映画の目…なのではある。そういう映画。