映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

でーれーガールズ(2015/日本)大九明子

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細かいモチーフを画面に活かす演出。たとえば緑と白のスカーフがさらりとほどかれて手に提げられるカットとカットの対称。画面の同期が双方の少女の言わずもがなの心情の同期を自ずから見て取られるべきものにする。このスカーフというモチーフはさりげなく少女達のゆれる自意識の表徴として何度も画面の中で機能する。(そのせいか、たんなる画面の片隅の偶然でしかないだろう、落涙によってスカーフに生じた小さな染みの痕跡が、妙に切実なものに見えたりさえする。)

あるいは、少女ふたりの表情や仕種、肢体や風貌。優希美青のぎこちなく目を回すような独特の表情やひき気味な仕種は愛嬌そのもので、しかしそれ故にこそ真面目な瞬間には裏表ない律儀な真摯さが立ち昇る。足立梨花の肢体しなやかな風貌はそれ自体キャラクターそのもので、しかしそれ故にこそ孤高が孤立として露呈してしまう瞬間が殊更に痛ましい。(編物をめぐる喫茶店でのふたりの交錯の場面こそ切なるドラマ。物語としてはあり来たりな場面でもそれがドラマとしてちゃんと生かされるのはこのふたりの具体性あってこそ。)

ある場面では男一人の落水の波紋が架空と現実の垣根を越えて物理的な波形を際立たせて少女ふたりの心模様と化し、またべつのある場面では大人の女ふたりが眺める対岸の犬と主人の挙動がつかの間ふたりの心模様を生ず。如何にも象徴的な画面の連鎖があるかと見えれば、逆に脱力的な画面の並行も見える。泣けもするが、笑えもする。

講演者の話を聞いていた女生徒がひとり意を決して退場して駆け出していく。その行動の意味を解するのは駆け出していく女生徒当人と講演者のふたりだけ。あるいは、本当に「その名」を呼ぶ「その声」は飽くまで無音の中に形象される。「その声」は実音としては封印されることで内声としてそれを見る者のうちに自ずから暗に響く。言わば非言語の「わたくし性」が画面の中で生きられる瞬間こそが物語のドラマを真実にする。