映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

私の少女(2014/韓国)チョン・ジュリ

f:id:menmoku:20170208000020j:plain

 

田舎道を滑る車のフロントからのカットで始まる。車は勿論舗装された田舎道を走り続けている。カットが若干奥に引いて、運転席助手席の背が映る。バックミラーには運転手のペ・ドゥナの顔が垣間見える。なんでもないようで、これで最低限映画は映画の画面をかたちづくる。ちょっとしたものでもいいから、画面の構図に工夫をあたえる。人物の演技指導だけによらないそれも(それが)演出。

人物が駆けていく描写、キャメラは若干ブレを見せながらゆるく人物を追う。人物が駆けていくのはたいてい垣根や壁の間。それも構図。駆けていく先、突然広がる視界。物語序盤の一度目はカットで断続的に場面を繋げて開ける視界そのものを最後に静態的に示す。物語終盤の二度目は人物の(キャメラの)駆けていく(進んでいく)持続的な運動の先に自ずから視界(=世界)が開けるように動態的に示す。

人物の仕種や身振り口振りの細部が、律儀に物語に集約される。クローズアップももちいるべきところではためらわずもちいる。
社会的な偏見や差別を描き出すような映画は、その題目を意識するあまり演出的なあざとさが目につくことも多いかも知れないが、ここでは演出家が自分自身で何を描きたい(映したい)と欲しているのかが判然としている。無論、固有の人格と運命の交錯を生きることになる一個の実存としての人間のことを描き(映し)たかったのだ。然るべきところではクローズアップをためらわないのも、描きたい(映したい)ものが(抽象的な一般概念としての「人間」なんかじゃなく)まさにその顔と顔の交わりだったからだ。

監督・脚本はやはり(と思ってしまうが)女性。ペ・ドゥナ繋がりで『子猫をお願い』なんて映画もあったが、共通するのは被抑圧者としての女性。被抑圧者の表現としての細部の繊細さがあるようにも感じる。(だからヒロインを演じるのが同じぺ・ドゥナであることにも必然がある。)