映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

ザ・ウォーク(2015/アメリカ)ロバート・ゼメキス

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回想で綴らねばならない物語だから、いっそ開き直って主人公自身に自覚的な語り部を演じさせる。まどろこしくなくていい。くわえてその大道芸人的なハッタリじみた身振り手振り口振りが如何にもそれらしい意匠として映画の色を示してくれる。

物語の布石。円形の自分の領域をめぐって主人公がみせるこだわりの描写が、綱渡りを演じるクライマックスにこそ暗黙の裡に活きてくる。自分以外の何者の侵犯をも許さない命懸けの独壇場。そんな峻烈なイメージにそれこそ「命」が吹き込まれ得るのは、やはり物語の力あってこそ、つまり物語を語る映画の力あってこそではある。ともすれば些末にも見える準備の段取についての描写は、しかし物語の手管としてはけっして段取に留まるものではなく、むしろクライマックスの独壇場が本当に独壇場として物語の中で輝くための布石として、丹念に描写される。

命懸けの独壇場で綱渡りしてみせる大道芸人のイメージは、ニーチェの『ツァラトゥストラ』に描かれるそのイメージをこそ思わせる。「超人」への過程にある者。つまり単純に言えば“超えていく”者。彼方を意志する者。開口一番主人公の語り出す通り、「何故?」という問いに答えはない。答えのないかわりに彼はただ意志して挑戦してみせる。そんな一見文字通り地に足着かない物語が虚しく空転することもなく地に足着けて生活する地上の観客にいかにして受容され得るのかと言えば、それを為さしめるのがつまり物語ること自体の力であるだろう。けっして天空での前人未到のパフォーマンスだけが見るべきものなのではない。そこに至るまでの描写ありこそすれ、昇華され得る物語の舞台がそこには見出せた筈なのだ。

準備の段取についての描写には、しかし物語的な予定調和に一見して収まらない余剰的な挿話も含まれている。朝方屋上にあがってきて何もせずさっていくスーツ男の挿話もそうだ。本来なら削ってもよかっただろうこんな挿話がそれでも挿入されていることは、主人公が握り締めた鉄パイプに行動を貫徹する意志の固さを描写したかっただけではないだろう。ふらりとやってきてたださっていくだけの謎の男の存在は、たぶん命懸けの独壇場で戦慄と恍惚を覚え、高じてすべての存在への感謝の念さえ捧げてしまう主人公の肖像とけっして無縁ではない。脚本と演出は事実以上のことは何も語らず描かずだが、謎の男の存在は空の彼方から飛来した一羽の鳥の存在とも相まって、主人公の体験する境涯に形而上的な意義の含みをさえあたえてみせようとするものだったのではないか。それはたんなるドキュメントではなく物語でなくては出来ないことだ。

綱渡りするその瞬間に『エリーゼのために』が流れだす。それはその孤高の旋律自体がその瞬間に相応しいからこその選択で、またその選択に過不足なく応える呼吸がその瞬間のその画面に確かに息づいているのが素晴らしい。周囲をかき消す霧も、あるいは霧の中に伸びる一条のワイヤーも、勿論絵に描いたイメージでしかないのに、それが映画の中で物語としての意味を十全に生きることが出来るのは、それらを巡る描写に物語ること自体の力があったからに相違ない。

3Ⅾでは見なかった。3Ⅾありきの企画ではあったのだろうがそれをアリバイに演出家はしっかり映画で物語を語ってみせた。高みに至ること、至ろうとすることの人間的な意義を示してみせた。たんなる事物に「命」を吹き込んだのはその出来事ではなく人間の物語だったと示してみせた。