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映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

コンタクト(1997/アメリカ)ロバート・ゼメキス

洋画(アメリカ映画)

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9回裏2アウト2ストライクからの逆転満塁ホームランみたいな物語を、たとえ虚構であっても現在形のまがうことなき現実として感得させる力が映画の力のひとつのありよう。言い換えれば奇跡が起こる瞬間をつかまえて見る者の眼前につきつける力。地球外知的生命体とのコンタクトの端緒となるその瞬間は、やはりその瞬間足り得ているように見える。シュコー、シュコー…と反復されるあの規則的なサインが聴こえ始める“その瞬間”。「物語」として予定的に期待されているから、ではない。あるいはそれが期待されているとしても、まさにそれが起こるその瞬間は、主人公の驚異に撃たれて開かれる瞳という映画に一貫するモチーフによってしかと現実と化すのだと思われる。

スケール的な大と小、あるいは社会(公)と個人(私)の対比が、演出や物語を彩る。一女性の手元に置かれたノートPCの操作だけで背景に並んで聳える25基もの巨大なパラボラアンテナが一斉に起動したり、莫大な公費を投入して推進された事業がごく私的な感傷的邂逅、認識論的転回に帰結する。そこにあるのは対比を媒介した対比の無化だ。
対比の無化は、以心伝心の如く遠大な距離がコミュニケーションの前に無化するモチーフの一貫性としても展開され、終幕の「コンタクト」の主題へと昇華される。各種の通信機器を媒介した黒幕とのやりとりの当意即妙的タイミングもその一環で、そんな演出的細部によって具体化された黒幕の不気味なまでの全能ぶりが終幕での事態の陰謀説的収束にも説得性をもたらす。
言わば「私信」としての遠大な宇宙を媒介したサイン。根底的にそうであってくれなくては恐らくコンタクトにもコミュニケーションにも「意味」がなくなるという真実。だがそれは社会的・公共的にはやはり秘匿されるべき歪な(アンバランスな)真実なのでもある。その歪さはポッドの転送装置の巨大な異物感やあるいは異国風俗の奇態な違和感に図らずもはみだすように具現化しているように見える。だがさらに言えば、その歪さが映画として真実をくるむアリバイともなっているのでないか。たとえ全てがつくりごとだったとしても、彼女が見てきた事実は真実を含んでいるということを、敢えて現実的なもっともらしさではなく映画的ないかがわしさにくるんでみせること。

「コンタクト」の幻想の砂浜にもなぜかしら微風が吹きぬける(ジョディ・フォスターのほつれた髪がゆるくそよいでみせる)のは映画としての面目。

ここでのネットワークは、内部への閉塞システムとしてでなくさらなる外部への開放システムとして構想されている(地球上のアンテナのネットワークを統合すれば地球自体が一つの大きなアンテナと化す)。