映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

ブリッジ・オブ・スパイ(2015/アメリカ)スティーブン・スピルバーグ

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人と人とのコミュニケーションをこそ主題として描く映画だから、セリフを含めたそのやりとりの機微こそ見て取り、聞き取るべきものになる。たとえば「不屈の男」を意味するというロシア語のセリフに英語字幕はなく、東独でのドイツ語にもやはりそれはない。つまり言葉の細部は不明のまま描写が展開されるが、それでも人と人との間で何がしかのコミュニケーションがやりとりされていることは人間同士の表情や仕草や、端的な行動そのものに於いてそのまま見て取ることが出来る。あるいは、「不安」を巡る単純な問答は三度繰り返され、繰り返されることで最後のやり取りが何気ないままに着実に印象づけられる。そのセリフを聞き取り聞き分けた見る者の誰もが、その直後の場面で陰に隠れてしまいそうなアベルの行方を自分自身の目で追うだろう。それは彼のセリフのぶっきらぼうな抑揚そのままに、何気なく進行する描写の中に瞬間垣間見えるだけだが、垣間見えるだけだからこそそれは見る者自身に委ねられて、その固有の認識の体験になる。「不屈の男」のやりとりも然り、誰かが何かを語ることを自分自身で自覚的に聞き取り聞き分けることの、その固有の認識の体験こそがコミュニケーションそのものの可能性を見る者に感得させもする。見て取る、聞き取る体験それ自体こそ映画だということ。

東独に於けるドイツ語が交錯する描写は、『プライベート・ライアン』の米兵と独兵の一種滑稽な突然の遭遇と、そのやりとりの場面を想起させもする。コミュニケーションの基本的な手段としての言葉が通じ合わないということの戦慄的で同時に恍惚的な、不可能性と可能性の交錯する感触に、この演出家は潜在的にひきずられているのじゃないか。