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映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

カウボーイ&エイリアン(2011/アメリカ)ジョン・ファヴロー

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「締まっている」か「緩んでいる」かと言えば、この映画は正直後者の類。

人と人との表情が交錯する画面とか、感傷的な同一化を曖昧に強いる、つまるところ何を見たことにもならない様な画面。親と子でも男と女でも異人種・異民族(異星人?)間でも、同じ。そういうふうに撮ってしまえば、みな同じくしてその者本来の、固有の魅力は失せて、紋切り型のイメージに回収される。感傷的な同一化は戦争の感情でしかない。グロテスクに異形化された他者に「悪」は投影されて、それを排除すれば世界(我々)は救われるという、感情。

人々がみな帽子を被っている。西部劇だから。ダニエル・クレイグも敵の巣から脱出する際、落とした帽子をとっさに拾うことを忘れなかった。そういやハリソン・フォードインディ・ジョーンズも落とした帽子は欠かさず拾っていた。その意味ではあれも西部劇の主人公の系譜にあったのかも知れず。

女に化けた異星人は、はじめからきちんと異星人らしい演技で登場する。演出が筋を通している。しかしそういうことだけを律儀に推進しても、やはりよく出来たアニメ映画にしかならないようにも思える。映画なら、たとえば殊更美人でもない女が掛け替えのない女に見えなきゃいけない。
意図を越えて、あるいは逸して人や物が動く、動いてしまう瞬間だけが、映画を映画にする。

主人公が記憶喪失した、卓抜した能力以外は何もない状態で物語が始まる。映画だとこのほうがむしろ好都合ではあろう。