読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

ファーナス/訣別の朝(2013/アメリカ)スコット・クーパー

f:id:menmoku:20170207232512j:plain

 

正しい感覚かどうか自分でわからないにせよ、この映画のウッディ・ハレルソンを見ていたら、アメリカにはまだ映画俳優がいるんだということを思わされる。所謂「スター」ならずとも面構えで堂々と視線をひきうけられる。堂々と映画を、物語をひきうけてくれる顔。

ヘラジカを撃ち殺さなかった男が、人間は撃ち殺す。撃ってしまった瞬間が「撃ってしまった瞬間」として画面に刻まれる。だがそれは思いもかけない不意打ちなんかではなく、むしろ撃つべくして撃つ(撃たれるべくして撃たれる)その予定調和、つまり物語の成就としての瞬間が、しかしそれでもまさにその瞬間の決定的な出来事として画面に生起したということ。(選択肢があるが、いざ選択されてしまえば、まさにその選択しかあり得なかったように思えてしまう、決定性。)

人間の証明としての殺人行為。人間が人間を人間と認めたことによる。こういう映画=物語(=因果)を撮ることが出来てしまうことは、恐らくアメリカ(人)にとっては諸刃の剣なのだが(いわば業)、それによってアメリカ映画のなんであるかがまだ証明されてもいる。
日本とはよくもあしくも異なる、広大多様な国土国風の中に生きてきたアメリカ映画。