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映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

白鯨との闘い(2015/アメリカ)ロン・ハワード

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原題″In the Heart of the Sea″。「海の中心」。ただ、″Heart″には文字通りに「心臓」の意もかかっているかも知れない。劇中、漂流中の人肉食いのエピソードに於いて、犠牲になった仲間の肉のうち心臓を真っ先に食べた、という話は出てくる。それ以上ほりさげられる話でもないが、とくにほりさげたりしないことに於いて却って観る者にその意味を斟酌させるかたちにこそなっている。なににつけてもエピソードだけを示す。必要以上にはほりさげず、たちいらず。人の心の中の話は、ただ慮ることが許されているだけという姿勢があるのではないか。あるいは、人が死ぬが、その死んだ者の顔を敢えて殊更には写さない。なにげないモラル。人道的モラルであるという以上に、映画で何を映すべきでまた映すべきでないかというモラルが演出家の中にきっちりあるのではないか。映画の中に於いてさえ、死者は死者として人間的に尊重されるべきだというモラルあってこそ、死者達の現実を裏切れず真実=事実を告白する船長の決断も(それさえ映画の中ではなにげないことのなりゆきとしてだけ示される)、如何にも人間的な重さを担った決断として素朴に印象づけられることになる。

人間的であることは、映画の中ではただ示されるのでなければならない。尤もらしい内面の告白なんぞは誰だって出来る。人間が人間であることをただ示したその行動の瞬間が、ドラマをドラマにしてくれる。白鯨とチェイスとの邂逅の場面も、それだけと言えばただそれだけの場面でしかない。チェイスは殊更その邂逅の意味(行動の意味)を述懐さえしない。映画を観る者は、ただ劇中の人物達と共にその一部始終を、あるいはその一瞬をこそしっかり見届けるだけでいいという、やはりモラル。

映画に於いて「ドラマ」というのなら、それはこういうものであるべきなんだろうという映画。