映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

宮本武蔵 巌流島の決斗(1965/日本)内田吐夢

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ここまで、一種滑稽に見えてしまうほど作劇の流れ、あるいは画面そのものから浮いていた小次郎の存在が、やっと本当の出番を得る。浮いていた由縁には、製作者と制作者との間に意識の齟齬でもあったのかも知れないがそれは判らない。

前作に続くように、お通との別れの場面が二度繰り返される。一度目は武蔵の迷妄を描く為の筋書、二度目は覚悟を描く為の筋書だろう。二度ともお通は泣き崩れる。その女性像の時代性はともかく、それは小次郎が決斗の場に船出する場面との対称になっているように見える。いわば藩の捨て駒となるかも知れない役割を敢えて判って出立する小次郎を、その憐れを慮って泣き崩れてみせた許嫁がやはりそこでも名残惜しそうに見送るが、その岸辺を向いている筈の小次郎の両目は、それを見据えることもなく左右に泳いでいる。その何気ない挙動が、小次郎が決斗に臨んで思わず鞘を投げ捨ててしまう捨て鉢な態度に繋がっているようにも見える。
ちなみに、小次郎が仕官を決めた御前試合での槍術遣いとの対決は、武蔵と宝蔵院流槍術遣いとの対決と同様、けっして一画面に全景が収められることはなかった。槍と刀とでは本来勝負にならないというリアリズムに配慮して、映画なりの虚構として場面を描写したのだろう。

これは原作由来の主題だろうが、物語としてその源流であり底流として流れるのは、「武士の血」という観念だった。親子の因果、男女の因果、敵味方の因果が錯綜して描かれるが、主たる人物は皆その血統を武士にもつ。お杉おばばがあれほど又八とお通の縁にこだわったのも、お通が武家の忘れ形見だったからで、それ故どこの何者ともつかない朱美と又八に赤子が生まれてしまっているのを見ても、再会に嬉し泣きしつつ少なくとも口では嘆いてしまう。「武士の血」の因果は、巡り巡って最後に武蔵の手にこびりつく小次郎の血に集約される。生き死にをつかさどるその血を巡る葛藤は、ここではなにかへと止揚されることなく終幕となる。

生き延びた武蔵は、つまるところはつかの間の物語という舞台にあの顔この顔を浮き彫りにしていくための狂言回しだったことになる。(先の決斗で武蔵の太刀を受けて失明した林彦次郎は、吉岡の亡き幼君や門弟達の菩提を弔う為に一乗寺下り松のたもとで仏像を彫り続けているが、それを見てしまった武蔵はただただ言葉もなく恐れ戦くように身を引くしかない。)狂言と言うにはあまりに凄惨だったとしても、そこに打ち捨てられてよかった人物があったようには見えない。各人各個に掛け替えのない人生のあることを制作者が当然に分別している。長岡佐渡は最後の決斗の場面に於いて、ふと傍らの子供に決斗の次第を「よく見ておけ」と諭す。何気なくとも、命懸けで次世代に託すべきものがあると信じる大人の言葉がそこにある。戦場でさまざまな生き死にを見てきた人達の映画=物語。