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映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

宮本武蔵 一乗寺の決斗(1964/日本)内田吐夢

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やはり人と人とが出会って別れて行き交う。

吉岡弟と果し合いに出ようとする武蔵が町中の茶屋に立ち寄り、腰を下して短い伝言を紙に書き記す。そのうち尺八の音が雑踏の中から聴こえてきて見れば小汚いなりの虚無僧が尺八を吹きながら店の前で乞食する。武蔵はそれを見覚えある人影として両目を開いて見つめるが、それに気づかぬ虚無僧は店の親父から銭を恵まれると一礼して去っていく。それを黙って見送った武蔵が親父に虚無僧の去来を問うて、それが既知の青木某と判じたところに、使いに出ていた店の娘が戻ってきて武蔵に頼まれていた草履を渡す。徐に武蔵が時を訪ねると親父は雑踏の人数の勢いから推量して答えを返す。ふと見れば雪がちらつき始めている。
人と人との行き交いが具体的に映画の一場面として構成される。人生と生活の重なり合う時間と空間がちゃんとそこに描写される。画面に物語の厚みが生まれる。
三十三間堂はロケかセットか判然としない。ともあれその空間の奥行きが吉岡弟と武蔵が対峙しつつ接近していく構図として活かされる。さきほどの場面でちらつき始めた雪がその空間の厚みを目に見えるものにする。
一乗寺下り松は周りが田畑で囲まれている。奇襲で大将の男子を討ち取った後は武蔵はひたすら逃げを打つが、泥沼と化した冬の田畑に体も手足もとられて、こけつまろびつ土にまみれて、なんとか落ち延びる(原作ではけっして逃げを打つわけではなく相当数の敵を切り伏せている)。
吉野太夫に説諭される「曲」の意味。言葉で物語ってしまえばなんでもない観念かも知れないが、琵琶を叩き割る手際、音、タイミングの鮮やかさが、その台詞が物語るとうのものを具体的に際立たせる。
吉岡一門は苦肉の策であれ年端も行かない男子を抗争の大将に立てるが、武蔵は危機に及び御供の子供を実父の元へと裏から送り出す(柵を挟んでの武蔵と子供のやりとりは股旅ものに通じるような情緒ほのめく)。また林彦次郎は原作にはない役回りで、滅びゆく吉岡一門をそれでも支え続ける忠節の家臣として描かれる。彼は武蔵の行く道の無益を難詰し、そう難詰する自分の行く道を武蔵の太刀を受けて失明しながらにでも貫き通す。
お通が武蔵をひきとめようとする場面。走り寄るお通が手放す薄衣が宙をただよう。お通の肖像がここまでで一番美しく画面に映える。靄の中に奥行きを伸長する松並木が縦の構図で両者をひきはなす(「弱く死ぬな」)。

一乗寺の決斗の場面は、何故かモノクロ。そこがこの物語の底(地獄の底)だからだろう。

「後悔はない!」と独り言つ武蔵の手には彫り掛けの木像。映画はただ、それを見つめよとだけ言う。