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映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

宮本武蔵 般若坂の決斗(1962/日本)内田吐夢

邦画

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冒頭、三年ぶりに俗世間に戻った武蔵がかつて約束した橋の上で思い掛けずお通と再会する場面。そこからして武蔵とお通の背後に広がる空の色が画面に映える。カットによって濃淡はかわるが、何よりその場面の印象は背後の空の色によって決定づけられている。それはつまりそこが武蔵とお通の新たな門出の場面だということ。だがその場面に限らず、この映画での武蔵の肖像は何かと仰角で、空の色を背景にして捉えられることが多いように見える。空の色は殊更単色的にぎらついたりはしていないが、決して曖昧な曇天でもなく、平穏な晴天として広がっている。それはつまり、その時々の武蔵の心の色なのかも知れず。

その時々の武蔵は、しかし具体的には何故か道端の物や人の表情に黙然と目を向けていることが多い。しかもそのことに物語上の必然性もあまり見出せない。おばばの助っ人が武蔵を誰何する場面で、何故か武蔵は道端の店先で職人が回すろくろを無心に見つめている。キャメラは回り続けるろくろを見つめ、仕事に没頭する職人を見つめ、それを無心に見つめる武蔵を見つめる。しかしそれだけだ。武蔵は助っ人が一旦立ち去ると自分も立ち去り、あとはおばばが仇討を仕掛けてくる場面に移る。ろくろのことなど後は省みられない。あるいは、宝蔵院の槍術使いを打倒したあと物思いにふけりつつ歩いていた武蔵が、道端でモロコシか何かを貪り食っているしがない浪人と何故か目を合わせる。目を合わせたふたりはにわかになれあったようなにやけ顔を交換するが、それもそれだけ。浪人は仲間に追い立てられてその場から退き、武蔵もまた構わず再び歩き始める。道端に目を向ける仕種自体は直後の場面でささやかな縁の端緒となるが、くだんの浪人との擦れ違いはそのまま、とくに物語上省みられることもない。

総じて旅の映画になっている。だからこそ道端の物や人との何気ない遭遇がいわくありげに点描されたのかも知れず。あるいは、最後に武蔵が抱え起こそうとする亡骸はモロコシ食いの浪人のそれだったかも知れないが、そうでなかったとしても映画上の意味連関としては繋がりあっている。物語上の意味連関として以上に世界内事物としての布置の相対の中にこそそれらはある。人と物と事とが物語という直接的な意味連関を越えて関わりあっている。(たとえばモロコシ食いの浪人との遭遇はそのまま直後のあどけない赤ん坊との遭遇にイメージとして架橋され、共に同じ人間でしかないというなけなしの真実がそこに暗黙に示される。とすれば終幕に於いての唐突な「いのちだ!」の叫びも、その暗黙の意味連関こそが意識されて表出されたものですらある。)その諸相はこの世の豊かさそのものだ。「旅は道連れ世は情け」という古びた尤もらしい文句が自然に含蓄ある文句として浮かんでしまう。

般若坂の決斗では、武蔵は多勢に無勢の抗争をとにかく動き続けることで生き延びる。動き続けて場を移し続けることで辛うじて一対一で敵を各個撃破する状況を保とうとしたように見える。しかしその決斗を含めたことのなりゆきが、宝蔵院の高僧の図った無頼浪人掃討の策略だったことを知ると、武蔵はその政治的な手腕に感心するよりむしろ逆上する(原作では素朴に感心を示すのみ)。ここでの武蔵の「いのちだ!」という叫びの唐突な凶暴さは、この映画がまだ戦後十数年目の制作であることを思わせる。60年代当時の映画館の客席には当然戦場で現実に命のやりとりをしてきた人々がいたということ。無名の無頼浪人の亡骸を抱え起こそうとして己の手にこびりつくその血を見、供養と称して置かれた南無阿弥陀仏の走り書きされた小石を力任せに放擲する。実感的な矛盾のさなかに身を置いているが故の生理的な凶暴さ。