映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

宮本武蔵(1961/日本)内田吐夢

 

冒頭、鏡を前にひとり化粧をつくろっている木暮実千代が、ふと視線をキャメラのほうへ向ける。何気なくキャメラとその視線が絡み合うかに見える。が、つぎの瞬間キャメラが引いてロングショットになると、木暮実千代のまわりには誰もいないし、視線をあずけるべき何物もないことが判然とする。つまりつい今しがたの木暮実千代の視線は、言わば宙に浮いてしまうことになる。少なくとも物語上の具体的な意味連関の中からは浮いてしまう。ではそれは一体なんの為の仕種だったのかと考えるなら、恐らくそれは、木暮実千代演じる御かみのあだっぽいキャラクターを端的に見る者に印象づけるための「演出」なのだ、ということになる。物語上の意味連関など、その程度無視してもいい。人間なんてものはときに無意識にでも無意味な仕種をしてみせるものなのだから、それを偶さかキャメラが見てとってしまったとでもなんとでも理屈は後からついてくる。あるいは「演出」と言うのなら、同じく木暮実千代演じる御かみが木村功演じる又八を籠絡してしまったことを描くに、又八の太ももから悪い血を吸い出しつつほくそ笑む御かみのカットから、その薄笑いがやがて青空にも木霊する高笑いとなって草わらに横たわる御かみの姿に繋がり、その解けた腰の着物の結び目と後ろめたいような又八の面持にキャメラが至ることで、そこで行われたことは言わずもがなに判然とするだろう。またその御かみの高笑いは直後の場面の娘の無邪気な高笑いとして反復されることで、その母と娘のキャラクターの相似と相違が暗に印象づけられもするだろう。「演出」が、物語上の意味連関にだけ依存せずに、むしろ映画上の意味連関として機能させられている。

ロケ撮影とセット撮影が的確に繋げられている。
冒頭、住家から「しごと」に出ていく母子二人の場面。馬を引く娘と、その馬に乗りこもうとする母。その背後の住家はセットだが、カットかわってその行先に広がる景色はロケ。そのカットとカットの狭間を母が馬に乗りこんで肩にかけていた傘を頭にくいっと乗せようとする小さな仕種のアクション繋ぎで繋げている。そのことで、カットかわってセット撮影からロケ撮影に切り替わっても、そのカットとカットの狭間に生起する時間がほんの一瞬にしか過ぎないように映る。後半、千年杉に吊るされる武蔵のイメージも、ロングショット、ミドルショット、クローズアップを織り交ぜて、その都度の視点=キャメラ位置の設定によって、人物各個の心理の向き合うドラマを、映画上の意味連関として浮き彫りにする。視点=キャメラ位置の設定はそのまま映像演出家の事物への視線のありようにこそ暗に支えられているものだろうから、それはいたずらに場景を描写するだけの無意義には陥らずに済む(その点、現在ではありがちなCGを前提にしたキャメラワークは、一見どれだけ動態的に見えても、本質的に静態的停滞に陥っていることが多いのではないか)。

お通が身を寄せる竹細工職人の、茶杓づくりに掛けて諳んじられるうんちくは、そのまま生きることの哲学そのもののように素直に響く。原作の叙述にはない、脚本が物語に密かに託した、しなやかな真っ当さに向けられた美しく正しいレトリック。