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映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

合葬(2015/日本)小林達夫

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日本映画はやはり時代劇を撮るべきなんだ、と思えた。日本式家屋建築の空間を映画にすること。風俗的ジャンルとしての時代劇を撮るために日本式家屋建築を活用するというより、端的に映画としての空間を撮るために日本式家屋建築を活用するということ。何故ならそこには空間があるから。空間を撮ることさえ出来れば、画面は取り敢えず映画になる。日本式家屋建築のこののっぺりした平面性。枠の中に枠を設けて世界を囲って見せるようなミニマリズム。それは端的に映画になる。この映画は恐らく杉浦日向子の原作からしてもそういった平面性とミニマリズムの映画になるべくしてなる。

冒頭の原作にはない挿話(?)は一見無駄。原作のように義理母子の問答から直入してくれるほうが映画らしくある。が、その挿話を挿入するならするでその不条理なセンスの表象は飽くまで具体を抑圧することでなされるべきでもある。闇は文字通り「闇」だからこそ闇。それは目に見えてはならぬ。(カフカの提案した『変身』の口絵。)

百物語する隊士達と遊女達。ふとした隊士と遊女のツーショットに、ああ確かにこんな瞬間がこの世界のその時その場にはあったのかも知れぬ、という未知の既視感が生じる。未知の既視感。そんな瞬間さえ一瞬でも切り取れれば、映画としてはしめたものじゃないのか。それはかけがえがない実在と化す。

心理的によりつくようなクローズアップはない。そこに依存しない。空間の中に人間がいる。実存している。人と人との「間」にこそ生じるドラマ。画面の中に人が入ってきて出ていき、また入ってくる。それだけでもドラマになるのが映画。(不忍池から戦場へ流れてすすんでいく低空撮の鳥瞰ショットという空間把握の平面性は、日本式家屋建築に於ける空間把握と同質センス。)

微妙な綾を含んだ聞き間違い。そのズレ。そういうズレが人間のドラマを生む。その意味で、物語媒体としての映画も、文学も、あるいは漫画も、そういうズレを胚胎せずばドラマともならず。(杉浦日向子の原作はその意味で優れて物語媒体として漫画的であるからこそそのまま優れて映画的、文学的なのだと言ってもいい。)人はともあれ行動し、その行動をめぐる認識は相関的にズレることであらたな行動の起点として人の間に潜在する。ズレこそが人間を逆説的に、わかちつつわかつことに於いてむすびつけもする。即ち静態的な「物語」を動態的な「ドラマ」として起動させることになる。

原作が死から駆け抜けていく生の物語なら、映画は飽くまで死へと捉われ続ける生の物語。終幕後、劇場の中からふと「怖かった」という素朴な感想の一言が聞こえたように思ったが、そう呟かせるべくしての物語になっているから、それでこそ、これでいい。なにしろ「合葬」だから。

付記

この映画『合葬』が基本的に意匠としてまとわせていた「死」のイメージは、ほぼ抽象的で観念的な、いわば生死の“意味”としての対称性を前提としたものだったが、その原作及び杉浦日向子の作品全般に於ける「死」のイメージは、逆説的な話だが、じつはもっとずっと生き生きとしていて、死者でさえ生ける屍として故もなく蘇ってしまうような、そんな生と死のあわいの狭間にただようような循環的な感覚こそがその真骨頂だった。

そこでは死は、飽くまで想念ではなく肉体であって、描かれるものと言えばもっぱら目に見えない「死」なんぞではなく目に見える「屍」だった。噴き出す血潮、腐った饐えた臭いや冷えて固まった肌、あるいはその肉体にまつわる妄執の醜さ、儚さ、(艶やかさ)、その具体性こそが杉浦日向子の世界に描き込まれ編み込まれた「死」だった(とするとこの映画『合葬』の冒頭、何者かの「実在」を“仄めかされる”感じはそんな「具体性」の変奏だったのかも知れないが)。それは飽くまで、生きとし生けるものの循環の中にあり、循環の中にある限りそれは己を滅してもやがてまた返りきて蘇る。

作家の本来的な感受性としての「大地」への信頼(東京の文字通りの「素地」としての江戸、そしてもっと言えば「土着」としての日本への)。原作『合葬』の終幕際の数場面(大画面!)の躍動と安寧こそ、あの作品の本当にこころざしたものだった(燃えあがる上野の空にはばたく「火の鳥」こそ)。

間主観的自己愛の表象としての死(心中)ならず、大地への帰伏としての『合葬』。