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映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

スター・ウォーズ/帝国の逆襲(1980/アメリカ)アービン・カーシェナー

洋画(アメリカ映画)

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一作目の大ヒットを受けての制作だったのだろうが、どことなく画面を構成するモチーフが潤沢になっているように見える。冒頭、旗艦のブリッジに立つダース・ベイダーの黒いマスクの後頭部、その光沢の滑らかさにすでにそれが出ているようにさえ見える。

二作目では、さらにサイズを拡張した大小のモチーフの対比が鮮明になる。一作目でその大きさを誇示した帝国軍艦の、その旗艦として登場するスター・デストロイヤーはさらなる大きさを誇示することでその存在をあらわす。片やそれに対するルークが師事することになるヨーダに於いては、一見して賤しい身の丈の小ささこそがそのキャラクター性の本質の一片を担うことになる。ミレニアム・ファルコン号が一旦逃げ込む小惑星は、小惑星と謂えども大きなクレーターはもちろん、谷もあれば深い穴もあり、深い穴かと思われたそれは、じつは同サイズの巨獣の腹の中でさえある。

一作目に続き、足下の奈落がモチーフとして反復される。空中都市は言わずもがな、ヨーダの住む惑星ダゴバの何が潜んでいるかもよく判らない湿地も、底無沼的なイメージとして奈落の一種だとは言える。足下の奈落は、作劇的には落下する(あるいは沈下する)運動を受け容れる口として機能する。無重力状態が物理学的に言えば無限への落下だと言うなら、まさにそれを表現する為にこそ足下の奈落は口を開けている。そのさきにあるものは言わずもがな。

父子の相克がドラマの主軸。そんな親子メロドラマの為に戦争してたのか、という批判的な評言も公開当時からあったらしいが、それがなかったらなかったで物語はドラマを喪失するだろう(あるクリエイターに言わせると「ドラマ」は飽くまで本質的な同類が宿命的に相対するところに生まれるらしい)。ルークは真実を聞かされたあとに、しかし足下の奈落に敢えて身を投じる。その表情は絶望した様子でもなくむしろどこかあかるささえ湛えているが、足下のゆきさきは結局わからないのだから、それは確かにかなりの程度自棄(文字通り)になった身投げなのだろう。どこかあかるさを湛える表情は、複雑に含蓄のある表情と化している。

惑星ホスでハン・ソロがルークを救出する際、乗っていた動物の腹を切り裂いてそこにルークを押し込んで一時的に保護する描写があるが、『馬々と人間たち』という馬と人間をモチーフにした最近の映画でも、極寒の中馬で同じことをする描写があった。これは実際に非常時の緊急避難策として知られた手段なのかも知れず。