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映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

スター・ウォーズ/新たなる希望(1978/アメリカ)ジョージ・ルーカス

洋画(アメリカ映画)

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今現在一般的に視聴されるのは以前<特別編>として公開された完全版(改訂版?)らしい。目立つCG映像以外どこにどのように手が加えられているのかはファンでもなければ判別できない。

今更観て気が付いたのは、宇宙空間をも主な舞台とするのにも関わらず、無重力状態の浮遊感覚が一切描写されないこと。考えてみればこれはここまでのシリーズで一貫してそうなっている筈だから、技術的に難しかったという以上に、題材的にこれがSFではなくてスペースオペラなのであることの証かと思える。

宇宙空間をリアルに再現するハードSFではないということは、全ての舞台装置は舞台装置でしかないということだ。つまり書き割り。広大な筈の宇宙空間を背景としながら活劇的アクションが常にせせこましい空間で展開することをひとつのネガティブな特徴として挙げる評言も見たことがあるが、逆に言えば、宇宙空間はあまりに茫漠として広大過ぎて、まともに活劇の舞台とするには荷が勝ちすぎる話だったのではないか。もっと言えば、恐らく活劇的アクションにはむしろ空間の限定こそが必要で、茫漠として広大過ぎる宇宙空間そのものは、それに適さないのだと思われる。帝国の戦艦が莫迦みたいに巨大なのはその意味で映画的な必然だった。(物体的な視界の占有率の高さで本来空虚な空間を圧倒する感覚を示さねばならなかった。)

宇宙空間に進出しつつ一切無重力状態のない、つまりどこまでも重力の存在を矛盾的な大前提とする活劇の舞台装置は、だからこそいつも底なしにも見える巨大な奈落をその足下に展開している。この作品で言えば、ルーク達が潜入するデス・スターの機関部があのように巨大な空洞でなければならない理由はそこにあるのだろう。それは恐らく宇宙空間そのものを描写することが困難であるが故の代替イメージだ。広大過ぎる空間は只管人間を呑み込むばかりで、その統御を越えている。

今も昔も気になるのは、ライトセーバーの重さ。無論「刃」の部分にあたる色とりどりな光線は合成であるから実際の役者が振り回しているのは「柄」の部分だけということになり、であるからかライトセーバーを振り回す具体的アクションには常に軽みがともなうことになる。敵の光線銃の光線を弾く時も剣豪同士太刀打ちし合う時も、どこか重みを欠いている。ふるわれる刀身の軌跡はその意味で予定調和に互いに互いを重ね合うかのようにさえ見え(実際そうなのだが)、様式的な優雅ささえたたえてしまう。オビ=ワンがある瞬間覚悟を決めたかの如く呆気なくダース・ベイダーの刃に倒れるが、惨たらしい骸をさらすことなく文字通り消え去ることは、製作上の必要であった以上に、結果的にはそれさえ恰もジェダイの騎士とやらに息づく哲学的世界観を具体的に示すものとなってしまう。

肝心なのは、それが哲学的世界観という自明視された抽象を前提にした描写であるよりは、むしろ制作上の必然として帰結した映像上の運動であることだった。宇宙空間そのものの代替イメージとしての巨大な奈落と、それを足下に展開しつつ演じられる重みを欠いた活劇的アクション(惑星の破壊=花火のような内部からの爆発が幾度となく繰り返されるのもその帰結だろう)。

重みを欠く消極性が、具体的な映像上の運動として、軽みの孕む積極性に転化し得た時代…だったんだろうか。