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映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

スター・ウォーズ/フォースの覚醒(2015/アメリカ)J・J・エイブラムス

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2016年元旦初回、大型スクリーンの前に客もまばらなしがない地方都市のシネコンで。

これがエピソード4から6の焼き直しなのは見た人なら誰でもわかる。わかることが前提の作劇は確信犯で、続くエピソード8、9の前段なのだと思えばそれもいい。
かつて威容を誇った軍艦の巨大さが地表に堕ちた残骸の巨大さとして反復されることで、それは作中の時代変遷を経たうえでの世界観を示し、少女がひとりでぱくつくみょうな食物はその調理(?)過程がきっちり映し出されることで生活感を示す細部となる。ほぼ全篇その調子で、遠景としての時代やその履歴と、前景としてのキャラクター達の行動とその人物とが描かれることで、物語が織り成される。その意味ではほとんど見ての通り。既視感とそれを踏まえたうえでの変奏を愉しめればそれで成立する作品。

ただ、わかったような批評的観点は、けっきょくわかったような作品しか生まない。かつて、たとえばミレニアム・ファルコン号がふわりと飛びあがるその浮力だの、離れたところからライトセーバーを手元に引き寄せるその理力(昔日のビデオでは「フォース」は字幕上そう訳されていた)だの、観客の子供たる自分達には皆目アンリアルな筈の正体不明な運動を、さも自分達にも可能であるかの如きリアルな運動として錯覚せしめたのが、シリーズ端緒(エピソード4~6)の活劇映画としての駆動因だった筈で、それをもはや既成事実として展開せざるを得ない今作とそれ以降のシリーズは、物語のなりゆきにしたがう以上の活劇性をたたえうるのか。(ハン・ソロが奈落に転落するその瞬間の落下を、物語としての筋道以前に落下として体感し得た観客はどれだけいたか。それが体感されるのでなければ、そこに生起しているのは予定調和な物語ではあっても映画ではない。)

レジスタンスの腕利きパイロットが操縦するXウィングが、カットを割られることもないまま長めに回されるキャメラのレイアウトの中で敵機を次から次と撃墜し、同じレイアウトの中で地上を走り抜けながらそれを見上げていた味方の人物が思わず歓声をあげる。恐らくCGだから出来る一続きに連動したアクションの流れ。CGが、かつては操作しきれずに画面に組み込めなかったモチーフを今は精妙に組み込んでみせる。だがそこには、やはり運動そのものに問答無用で圧倒される感覚はない。そこで展開されるのは描写ではあっても運動ではない。

文字通り「無名」のストーム・トルーパーから出世して物語を立派に牽引してみせたフィンは、けっきょく死に果てた。ハン・ソロの死が物語的な予定調和ならフィンの死はそれにまして構造的な予定調和だ。人物の死が予定調和に見透かされる物語が、しかし果たして本当に「物語」なんだろうか。死に意味がないなら(あるいは逆説的に言ってむしろ無意味でないなら)、生にだって当然意味なんかない!