映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

ゴースト・イン・ザ・シェル(2017/アメリカ)ルパート・サンダース

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役者の肉体、あるいは肉体の役者。つまるところそれこそが「アニメ」ならぬ「映画」のなけなしの強味なのかも知れず。

 

スカヨハ演じるところの「ミラ」こと少佐は、いきめぐる人びとからことあるごとに「美しい」と評されるが、「美しい」のはじつのところ生身のスカヨハの造形なのであって、だからアニメのオリジナル版ではついぞ言及されることなどなかった少佐の顔貌の「美しさ」が、この映画では殊更言及されることに独特の意義が生じる。無論物語上ではそれは人工の「義体」故の「造られた美しさ」ということになるのだが、それが映画として有意義足り得るのは、それが飽くまで生身のスカヨハの造形であるからだ。生身のスカヨハの造形だからこそ、映画の中でそれはかけがえない賜物として内実を宿して映るのであって、それがアニメの中でアニメの造形として言及されるだけであるならば、そんな言及はたんなる物語上の約束事にしか過ぎなくなる。

 

この映画のあれこれは、けっきょくどれもこれも胡散臭い。スカヨハの義体演技も、肉襦袢コスも、広告過剰なビル群の街並も、バトーのカメラアイも、たけしの日本語台詞も、露骨過ぎるオリジナル版リスペクトも、もっと言えばだいたい話の辻褄合わせの為だけにある様な自分探索問答も、全部が全部、尤もらしいと言うよりは、はっきりと胡散臭い。だが、敢えて言えばそれがいい、それこそがいい。なんとなれば、映画なんてもとよりそんな「胡散臭い」ものでしかないからだ。アニメのオリジナル版が、アニメというもとより実存無き媒体で実存問答を演じて、尤もらしいがゆえに空々しい、あるいは空々しいがゆえに尤もらしいドラマを構築して見せたのに比し、映画では断然、「美しい」スカヨハの肉体、肉体のスカヨハが紛わぬ実存としてそこにあることで、むしろ胡散臭い自分探索問答の白々しさを平然と構成出来てしまう。

 

たとえば、スカヨハのわざとらしい義体演技は、義体を「演技」していることがそこに図らずも露呈してしまう、そのことに於いて映画の可能性をむしろ担保する。母親役の桃井かおりの揺れてふるえるような実存的演技のありようはこの映画の中に於いては出色かも知れないが、スカヨハのわざとらしい義体演技だとて、それがつまりはかけがえのない、なけなしの役者の肉体、肉体の役者、すなわち実存そのものでしかないことは、その身体動作のほんのかすかでわずかな揺れやふるえにも、如実に刻印されている。アニメでは殊更描こうとしなくとも実際微動だにしない人形じみた人間を描くことは容易だが、映画ではむしろ、微動だにしない人形をどれだけ演じ切ろうとしても演じ切れないイメージとリアルの“隙間”にこそ、かけがえのない、なけなしの実存、謂わば「魂」は宿ってしまう。

映画はそれ自体、仮想現実であるかと言えば、だからこそ半ば否。映画は超越論的な統覚のみにて物語を語るにあらず、むしろ役者の肉体という実存的個に於いてこそ物語をそこに現前的に示すものでもあるから。

 

話の収束は、オリジナル版に比すれば矮小でしかない。古臭いと言えばまことに古臭い実存主義的な話の収束。しかし、スカヨハの肉体ありきのこの判り易い映画なら、それもまたさもありなんではあり。

クリミナル 2人の記憶を持つ男(2015/イギリス=アメリカ)アリエル・ブロメン

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映画の中に世界の細部を切り取る“描写”。

冒頭に展開される銃撃戦。無政府主義者の徒党による襲撃は、第一撃でタクシーの運転手の頭蓋を撃ち抜き、つづいてタクシーのタイヤを撃ち抜きパンクさせる。むろん、移動を封じる為の襲撃の基本的な段取だ。対抗するライアン・レイノルズ演じるところのCIA捜査官は、まずは一撃で敵の一人を撃ち殺し、つづいてタクシーのサイドミラーの角度を変えて敵の様子を確認し、さらに数発の銃撃で牽制しつつ廃屋の物陰に移動する。移動したところで、さらに敵の銃撃に反撃する際に朽ちた壁の格子の隙間から敵を狙撃する。しかしその為に銃弾を使い果たし、残弾がないのを確認して″Fuck!″の一言で天を仰ぐ。

これだけと言えばたったこれだけの場面でも、その画面の断続がことの成行を説得的かつ現実的な理路で展開する。

 

画面の連鎖を断つことを心得るということは、むしろ繋げることを心得るということでもある。たとえば開幕一番の、海辺とそこに立つ一人の男のショットは、終幕に於いて反復される為にこそ挿入されるが、挿入されるそのイメージが物語のキーになることは、その開幕一番の唐突な挿入に於いてこそ有効に機能する。物語の予定調和も、それは映画としての語り口に於いてこそ受け手に受け容れられうるものになるわけで、本来何もなかった筈のそこに受け手にとっての説得的な物語が立ち現れうること自体、立派な映画の幻術なのだと思う。血生臭い殺し合いの物語の始まりと終わりのイメージは、清廉な海辺の平穏な水色。その落差は決して断絶ではなく、むしろイメージの相反的な断続として機能する。それは映画的な“イメージの運動”として物語を縁取ることになる。

 

この映画の何よりの賜物は、つまりはケヴィン・コスナーの、その貌だと言っていい。その貌が、判り易いところの表情芝居と相いれない映画の設定とシナリオにとてもよく即した。もとより大袈裟な表情芝居をしない(出来ない)印象のある役者の貌が、本来匿名的な落伍者でしかなかった筈だろうジェリコという男の語られざる人生と人格を、図らずもよく体現した。この映画のジェリコは、その頭の裏の血生臭い傷口の縫目一つだけで見ても、いわば「フランケンシュタインの怪物」の系譜にある存在なのだと思われるが、ケヴィン・コスナーの役者としての貌の寡黙さは、その怪物をそのまま素直に仕草や動作で演じるに委ねていて、殊更な心理的表情芝居の余計を感じさせない。

 

ジェリコの脳裏にフラッシュバックするポープの記憶は、そのまま映像のフラッシュバックとして簡易に、感情の交流や情報の錯綜もほぼセリフにあずけられて語られることになる。それらは安易とも言えるが、飽くまでアクション主体の活劇なのだとすれば、それらの安易も準拠的な話法として受容されうる。何より、この映画の美点は、当たり前の映画を当たり前に仕立てあげていることにある。だから、これでいい。

 

そして、映画の物語は、幸福へと回帰する。自分は何者か、などという賢しい問い掛けになどはしることなく、真向に幸福へと回帰するそのドラマツルギーは、それはそれで正しい。その点この「フランケンシュタインの怪物」は怪物から人間になり遂せたことになるが、それを体現しているのが飽くまでケヴィン・コスナーの寡黙な貌である限り、それはむしろ肯定されうる帰結であるようにも見える。

アンジェリカの微笑み(2010/スペイン=フランス=ブラジル=ポルトガル)マノエル・ド・オリヴェイラ

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大河の河畔、夜半の街並。その景観のロングショット。それだけでもはや映画の画面。雨降り頻る石畳の路上をヘッドライトを輝かせる車が滑るように走りこんでくる。それもやはり映画の画面。何よりも音。そこで雨が雨として映画の画面を際立たせるのは、まぎれもなくそのシトシトと石畳をうちつづけるところの雨音故だ。雨音は青年を屋敷に送り届ける車の中にあってもガラスをうちつづける雨音としてひそかにその音を響かせて、この映画の世界の果てない慕わしさを暗黙の裡に印象づける。

 

縁取られること。それは世界から切り離されることだ。世界から切り離されるとは、つまりこの世のものではなくなるということであって、だから事物を縁取り世界から切り離すところの写真のファインダーの向こう側から見込まれてしまった青年は、敢え無くこの世のものでなくなることになる。青年は生活する空間としてのあらゆるものに縁取られる。窓、扉、鏡。しかし何より、フィックスで青年の生活する空間を映し出すこの映画の画面自体が、青年の存在を縁取るところの最たるものではある。窓や扉や鏡が世界の縁として青年の存在を脅かしうるのも、何より映画の画面がそれらの四角的で平面的な世界の縁取りと近似形をなしているからではないか。いったん世界の縁が青年をとり囲んでしまえば、あとは青年がその運命を逃れるすべはない。青年は夢と現の狭間で世界の縁の行き来を繰り返した果てに、昇天する。

 

音。この映画の音は、しかし映画自体が夢と現とを行き来する物語の媒体としてこそ機能するが為に、やはり世界を縁取るものとして青年をとり囲んでいるかのごとく響く。世界を縁取るものとしてとは、つまり画面の内部と外部、その狭間をこそ意識させるということであり、音が響くことで内部の空間に外部の介在を意識させる機能を発揮するということ。通りを走るトラックの轟音はその最たるものだが、だからこそ終幕、閉塞される窓の扉とともに映画は無音の世界に還ることにもなる。終始開かれ続けていた窓は、やはり異界との縁だったということ。

 

死せる女との空中遊泳。古典的なエフェクトとしての合成処理だろうこの画面の独特の浮遊感は、それ自体がやはり映画の自己批評になる。それはありていなリアリティ志向にからめとられることなく、映画は映画でしかないがだからこそ現前する夢想そのものとして現実と化すということをそこに示す。その空中遊泳の画面の如何にも古典的な独特の浮遊感あってこそ、たとえば完全な俯瞰としての高高度からの下界の景観ショットたった一つだけで、その空中遊泳が世界(生死)の縁に漂う危い戯れであることが直観できてしまう。

 

静物画的なフィックスの画面がつづく映画の中で、最も動態的なアクションが示されるのは、青年が死に至る疾走を疾走する場面ではある。疾走を疾走する青年に、しかし何も理由はない。青年自身の内心にはあったのかも知れないが、しかし映画を見る者にそれが了解される様な仕方ではなにも描かれない。それは映画の中では全く以て予定調和に、死に至るための疾走でこそあり、だからそれは言い換えれば疾走の為の疾走でこそある。そこで示されるのは、なぜかしら疾走の契機となった小鳥の死は青年の死でこそあって、即ち青年の生は(籠の中の)小鳥の生であったという寓意なのかも知れない。

最近見た映画(その05)

◎『幸福は日々の中に。』(2016/日本/茂木綾子、ヴェルナー・ペンツェル)

貌の豊かさ。と言って殊更その心理的な表情に執着する映画ではむしろない。ただ皆が皆、活きている。そのことが、その貌の豊かさの印象として帰結する。アニミズム的な、うごきまわることの生命の印象。

「ノーマル」でなく「スペシャル」であるというその言及のありようが、なるほどその通りに、画面に登場する貌、貌、貌によってたしかにそこに生きられている。どうしてそのように見えてきてしまうのかは俄かには判らない。判らないが、現にその貌達を見れば、彼らがそこに自分自身としてユニークに活きているのは分かる。

皆が皆して叩き出す騒然たる音楽の正体不明の「圧」が映画を支えていることは間違いない。

 

〇『トリプルX:再起動』(2017/アメリカ/D・J・カルーソ)

アクションにちゃんと「展開」がある。空間を活かし、また造り出しさえする画面の、動線の確たる構成が映画をちゃんと「活劇」にする。

 

〇『肉弾鬼中隊』(1934/アメリカ/ジョン・フォード

さまよえる偵察隊、全滅す。一言で言えばそんな筋書でしかない物語なのにもかかわらず、それでも終幕、兵士達の墓標となるサーベルの刃を誇らしいように白く輝かさせずにはいられないジョン・フォード。その呆気羅漢ともした無暗な肯定へのベクトルこそ、本来の「映画」の姿なんじゃないかとすら思える。

決定的な不足は、アラブ兵の「顔」だろう。

なぜこの映画が欝展開にもかかわらず基調的な明澄を失わないのか。それは、それぞれの人物がそれぞれのかけがえのない人生を生きていることを、脚本と演出が着実に描写するからじゃないのか。

 

◎『ブラインド・マッサージ』(2014/中国=フランス/ロウ・イエ

呼吸や脈拍を必然的に印象づける接写、あるいは盲人同士が同じ空間につかの間共存しているそのことをさえ当たり前にひとつに捉えようともしない画面は、一見映画を映画でなくするようでいて、しかしそのことによってしか見いだせない生理的な交感を刻むことで、やはり映画になる。

常に開かれ続けていた青年の瞼が閉じられる時、その目の前には、見えない顔がしかしはっきりと見えている(微笑)。けっして齟齬ならず。

盲人を殊更「盲人」として描く視点は、現今の中国文化圏にそれでも息づく封建的性質の自覚的発露なのじゃないか。

 

〇『ホワイト・バレット』(2016/香港=中国/ジョニー・トー

クライマックスの為の映画かと。その為に作劇が組織されているようで、「現実的」という観点で言えば無理感も。キャラクターにあたえられているのは作劇の中の「役割」だけで、「人物」としての見えない幅を感じられない。

 

△『ネクター』(2014/フランス/ルシール・アザリロヴィック)

ふと昔年の前衛映画をさえ想起させられるような、フィルムで撮影されたのだろう短編映画。なれど音声は画面と当たり前に同期し、「現実感」に当たり前に寄与、帰依するばかりで、映画そのものとしての「素材」を露わにはしないという意味で、当たり前の劇映画でしかなく。

乳房が乳房たるような柔いもみしだきかたになんとなく女性らしさを感ず。

最近見た映画(その04)

*「ロマンポルノ・リブート」5本*

 

△『ジムノペディに乱れる』(2016/日本/行定勲

なんでジムノペディなのか。なんでこの男なのか。なんでだいたいロマンポルノなのか。わからない。相変わらず審美的に耽美的なソフトフォーカス。ロマンポルノとして映画として、必要なのは化粧(粉飾)でなく素肌(露呈)ではないのか。そこに生きていることのかけがえのなさ。

 

〇『風に濡れた女』(2016/日本/塩田明彦

艶がない。運動会よろしく人間同士が裸体でくんずほぐれつし合っても、それで映画が有体な現実感を突き抜けて映画になってくれるわけでもない。ちょっとした目線や仕草が可笑しさを生むのは判るし、実際それによる喜劇性をこそこころざしていたのならこれはこれでいいのかも知れないが、本来「濡場」である筈のくんずほぐれつに艶がないのはやはり欠点であるまいか。

空っ風に素肌をさらすような実存の震えなくしてそんな「艶」など生まれようもなく、裸体はたんに裸体としてそこに提示されるだけになってしまう。

 

◎『牝猫たち』(2016/日本/白石和彌

女達と男達のからみあいが艶めく。これこそ、だと信じる。女達の素肌が人生の影、物語の艶を帯びて、巷間にのたうつことの切なさをにじませる。一見すればだらしなくみだれているようでも、それでも不意に示される一片の情理の発露が、実存する人間としての艶となってその素顔の肌理となる。

ふと風が吹く。なぜかしらその場面に風が吹き、木の葉を揺らすことの映画的なざわめきが、確かに相応に映画を映画にする。物語が、人生が映画の中で人物の実存として生きられているからこそ、そんな瞬間もまた可能になる。

 

〇『アンチポルノ』(2016/日本/園子温

画面の中で演じられているものが、すぐさま舞台劇的な閉塞感に翻訳されてしまう。劇中劇的なメタフィクショナルな構造で自覚を見せ掛けてもアリバイにしか感じられない。

映画が風俗として巷間に居場所を喪った時代の、如何にもそれらしい密室性(密室的性風俗)。出来のいいフィギュアみたいな冨手麻妙の肢体(それはそれでいいんだけど)。

 

△『ホワイトリリー』(2016/日本/中田秀夫

ドラマが上滑りするように見える。恐らくは、同性愛的な性戯を演じる女優と女優が映画の中で拮抗する人物同士として捉えられていないから。象徴的なのは準ラストシーンで、落涙して「先生」の元を去る飛鳥凛のクローズアップに対して、「先生」である山口香緒里への切り返しのクローズアップがないこと。この二者のそれぞれをそれぞれに描くことをしなければ、ドラマは(文字通りに)ひとりよがりな女の独白に似たものにしかならない。人と人とがからみあうのでなければ、なんの「濡場」か。

 

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いわゆる単なるポルノグラフィならぬ「ロマンポルノ」に必要なのは、「触れ合うこと」をこそ描くことなのじゃないか。役者(とくに女優)が素肌をさらすことの意味がかわってくれば、それをめぐるところの画面の中での肌理自体も相関的にかわってくるのだろうが、それでもエロスがエロス足り得るのは、それが「触れ合うこと」の表象であるからなのじゃないか。それが、素肌が最高の衣装となるように裸を撮る、ということになるのじゃないか。

たんに服を脱げば裸になるのではない、ということ。服を脱ぐことが何を脱ぐことになるのか、ということかも知れない。