映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

太陽の王子ホルスの大冒険(1968/日本)高畑勲

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画面を彩るアイデア、その豊かさ。たとえば冒頭のホルスと狼達との戦闘シーンからして、あの手斧の「縄」。そのアイデアの出色なこと。単なる剣でも斧でもなく、自在なリーチを展開できる「縄」の結びつけられた手斧というアイデアあらばこそ、そのシーンからして立ち回りのアクションは画面いっぱいに繰り広げられることになる。文字通りに「立ち回り」が「繰り広げられる」。つまり画面の中で回る運動と空間の広がりが十全に活かされる。この手斧の「縄」のアイデアは、その後のグルンワルドとの最初の対決のシーンでも、やはり文字通り「運命の手綱」として演出に活かされる。悪の親玉に「運命の手綱」を握られてしまったことが判然とする瞬間のちょっとした戦慄は、そのまま悪の親玉たるグルンワルドのキャラクター性に投影されて、その印象を見る者のうちに暗に刻みつける。

 

作劇的には、単純に言えば善と悪の対決で、社会主義的な理念の投影を以て全体のドラマが構成されているのも確かだろうが、それがそれでもドラマティックに観る者に迫り得るのは、それが何より個の実存の問題として描き出されるからにある。いわばそれは個の実存の内に展開される仮面劇であり、たとえば少女ヒルダの葛藤する心の内はリスと梟の二者に託されて演じられることになる。よくある心の内の天使と悪魔の対立のような観念の図式化のようだが、それが心の内の形象化にとどまらず、実際にヒルダの周囲につかずはなれずするキャラクターとして描き出されることで、それらはヒルダを巡る演出の中に組み込まれ、ヒルダの葛藤する心の内をアクションとして表現することが出来るようになる。

 

つねに行動しつづけるホルスと、つねに苦悩しつづけるヒルダとは、それじたい一個の実存の内的な葛藤の形象化ではあるかも知れない。しかしそれが単なる形象化にとどまらない内実を獲得し得たのは、とくに少女ヒルダの具体的な演出的造形によるところが大きい。たとえば、まずあのわずかな描線のゆるみやゆがみで表現されるその表情の機微。微妙な按配にゆるみ、ゆがむところの眉間や口元は、その苦悩の繊細さの形容し難い機微をあらわしてあまりある。また決意したときにヘアバンドを決然と刃で断ち切る仕草や、なすがままになぶり者にされるときのからだのふらつきも、その心の内のありようが見える動きとしてそこに如実に示される。見る者はそんなヒルダの一挙手一投足にこそ魅せられることで、そのドラマを信じることにもなる。

 

社会主義的な理念の投影を受ける作劇は、その理念からすればさまざまな矛盾を含蓄することにはなる。協同の尊厳を描こうとしながら、それが作劇としてはホルスやヒルダやグルンワルドという象徴的な存在に託すことでしか描かれ得ず、協同の理念がそのあり得べきかたちのままに描かれることはない。それはむしろ、理念が現実化するときに被る普遍的な物語化のありようをこそ体現してしまっている。何某主義の理念などより、もっと根底的に人間のイマジネーションに訴求するのは、結局象徴的な存在が象徴的な対立を演じるような神話的物語だということ。だからこそ、現実には社会主義理念は無惨に滅び去ったわけで、だからこそ、作家としての高畑勲はそののちに、行動するホルスではなく苦悩するヒルダをしか描くことが出来なくなったのかも知れず。(宮崎駿は、むしろその少年と少女の結びつきをこそ信じようとすることで、描くべきものを模索し得た。)

 

それでもホルスの様な象徴が信じられていたその朗らかさは、たとえば船出するホルスの姿にきらめく太陽の光が一瞬重なるような何気なくとも素晴らしく勢いに充ちた描写に端的に形象化されている。その一瞬だけで映画自体を信じたくなるような一瞬。

最近見た映画(その03)

△『島々清しゃ』(2016/日本/新藤風

子供達や素人の老人が主要なキャストで登場するが、そうすると脚本の脆弱さがもろに出てしまう。絞りどころ、落としどころが曖昧なままの構成で印象も曖昧に終わる。人物の語るセリフが地に足着かない(体に具わっていない)ように響いて腑に落ちない。
「プロフィール(横顔)」を切りとる様な随所の女優に向けられたクローズアップは、それ自体としては悪くないように見える。しかしそのイメージが全体の御話と通い合わないので活かされない。それこそ「ちんだみ(調弦)」が良くない。
ガタイのよい安藤サクラが纏うと存在感が出る夏仕様のシンプルな服飾。

 

〇『雨にゆれる女』(2016/日本/半野喜弘

「雨にゆれる」とくれば、それこそ「雨」が印象的に画面に刻印されてくるのかと思いきや、それほどでもない。薄暗い廃屋じみた家屋に鈍く差し込む白昼の光も、画面の艶を構成するとまでは言い難い。風も窓外で吹いていたようには思うが、吹いていただけだったようにも思う。ただそれでも、青木崇高大野いとのふたりは確かに艶ぽく見え(敢えて言えばふたりとも肉感的なのがよろしく、またものを食べるという仕草が何気に大事にされているのもよろしく)、故にそのふたりの物語にも見入らせるものはあった。大野いとの叫びに真情を感じられるだけの内実はあった。

 

〇『ザ・コンサルタント』(2016/アメリカ/ギャビン・オコナー)

いわゆる「高機能自閉症」という障害を負うものらしい主人公の物語になるが、その障害がユニークな個性として具体的な作劇の細部の中に活かされる。物事の細部に几帳面すぎるほど几帳面なその固執ぶりは映画的な演出と相性がよいのかも知れず、映画の細部の描写にタイトな印象をもたらすことになる。

敵方の黒幕との決着のつけかた、その殺害の躊躇のなさは、アメリカ的なモラルの端的な発露なのかも知れず。そのモラルとは社会的公益性うんぬんよりも家族の絆こそ第一という(家族を自分の為に殺す様な男にはなんの躊躇もなく引導を渡すという)モラルであり、またそれが障害を負う者の個性の中でよくも悪しくも純化されたものとして結晶しているという描写になる。

いわゆる「高機能自閉症」という障害の個性が、プロフェッショナルな規範意識に近似する。似て非なる部分があるとせば、それはセンチメンタルな独善性があるかないかかも知れず。よくも悪しくも、子供のままに大人を生きている主人公。

 

△『サバイバルファミリー』(2016/日本/矢口史靖

ことごとくおとなしく想定内に収まる展開。震災の記憶を前提にした設定ではあろうが、根本的に問題として向き合う意識のあるわけでもなく、せいぜいが長いバカンス旅行程度の含蓄しかもちえない非日常。

災厄の原因がなんとなく示唆される。映画としては示唆されなくても構わなかっただろうが、示唆されればされるで、決して全然あり得ない事象でもないということが判る。日常がいかに脆弱かという簡単な教示にはなる。

 

△『皆さま、ごきげんよう』(2015/フランス=ジョージア/オタール・イオセリアーニ

あり得ないような強風が画面を席巻しても、そこに映画の神はなんらの恩寵ももたらさない。それよりも、たとえば銃撃されて階段に倒れた男の背広のすそが全くの偶然であろう微風によってわずかにはためいて見えたりする方が、まだしも映画の神の恩寵を感じないではない。いくら映画的な演出を意図しようとも、それが本当に「映画」になるかどうかは意図の範疇を超えている。残酷なことにつまらない。

つまらないと言えば、たとえば警察署長の役者の風貌のつまらなさ。全然つまらない。

妙な瞬間の妙な按配なジャンプカットがいくつか見られる。

 

〇『あなたを待っています』(2016/日本/いまおかしんじ

「あなたを待っています」のカードをさげた山本ロザが、登場以降、聾唖者のようにほぼ喋らない。喋らないである決まった身振り手振りだけで主人公や他の人間とやりとりする。コミュニケーションにならないようでなんとかなっているらしいそのやりとりにそれなりに見ているこちらもなれてきた終盤、山本ロザはやはり唐突に肉声を発する。

そこまでほとんど「ひとりサイレント」だった人物が、映画内で肉声を発するその瞬間だけは、「映画的」と言いたくなるような戦慄をかすかに覚えた。いわば、たんに役者が言葉を語り始めるだけのことが、映画(史)の中でいかに決定的なことだったか。

沈黙 ーサイレンスー(2016/アメリカ)マーティン・スコセッシ

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映画には何があるか。何もない。映画は現実の事物と向き合うところからしか生まれない。ということは、現実の事物と向き合うことなくして映画そのものにはじつは何もない。なんらの被写体もなき無の時空に映画は実存しえない。映画は全くの「闇」を表象できない。

映画にはあれこれの現実の事物の形が映る。逆に言えば、形のないものは映らない。然しそれを言うなら、映画それ自体にはそれこそ形がない。それ自体には形がない映画が形あるものの形を映すことではじめて成立する。映画の存在論を語ればそうなる。

映画の視座は、だからすなわち、遍在しつつ偏在する神の視座に準えることが出来る。極大から極小への、遍在から偏在への可能性の中に担保される映画の視座は、しかし完全な遍在にも偏在にもなり切ることが出来ないことに於いて現世的で、現世的であるがゆえにあの世からこの世にコミットメントする神の視座にやはり準えることが出来る。

 

棺桶の中の遺体が掌中に抱くその「形」は、ただ映画=神だけが見届ける。映画=神は、ただ他者としてその「形」を見届ける。もはや遺体となった本人の意思さえも問題にしえないところで(それは日本人の妻が密かに忍ばせたのかも知れず)、ただ「形」だけがそこに遺る。尤もらしい観念は何も遺らない、何も。しかしただ「形」だけはそこに遺る。なけなしであるがゆえにかけがえのない、そしてあられもなき「形」、それが映画でなくてなんなのか(思い出すのは『ラストエンペラー』の蟋蟀)。

「ただの形だよ、形…」という悪魔のささやきは、そのじつそのまま神のささやきだが、そこにはもはや、その全体を止揚する神の意志を論うことさえもできない、ただの現実があるだけだ。ただの現実は、なけなしであるがゆえにかけがえのない、あられもなき「形」としてだけ生き続けた、ということ。

 

(本当の苦悩は、苦悩自体が救済になる。問いが真摯に問い詰められれば、問い自体が答えになる。それはそれを生きたことのある人間にしか分からない。)

 

「その後」を示したエピローグは、だから作劇上では必然になる。“転向”後の、つまりは世界の表裏が反転した後にも、人生は続き、世界自体も続く。のちの隠れキリシタン達の信仰がローマカトリックから異端認定されてしまう歴史的事実にも、それは暗に対応しているのかも知れない。つまり、それを信じた(「信仰に燃えていた」)人々の魂は、いったいどこにいったのかということ。

 

浅野忠信イッセー尾形の悪魔的な存在感が光る。浅野忠信は何をやらせても浅野忠信でつねに映画の中で攪乱的な存在。イッセー尾形は形態先行型の「演技」でいやらしさに転びかねない虚構的なもっともらしさを体現。この二人が「悪」の魅力で映画を支えていた。

革命前夜(1964/イタリア)ベルナルド・ベルトルッチ

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貌。少女的なコケティッシュを垣間見せる、けれども確実に齢の陰が刻まれつつある、その貌の映画。だからほとんどその貌にだけ画面は注視しつづけて映画は終わる。その貌があらわにするあの表情この表情は如何にも媚態だが、しかし自らを投げかけるべき確たる対象をもたぬ媚態として、映画のキャメラの前にだけ露わになり、そしてきえていく。


映画は自らを切り刻んでみせる。現在という時を何度でも味わい尽くせる特権的な場として数瞬のはざまに反復してみせる。若者は言う。自分には現在がすでにして過去の陰影を宿していると。しかしそんな認識自体が、現在を特権的な現実として生きている証でしかないことを若者は知らない。


若さと老いとは、同じ一つのものの表裏でしかない。若さの面が傾けば、老いの面も傾く。いつしかそれが裏返れば、若さは若さを意識しないように老いは老いを意識しなくなる。若さが若さを(老いが老いを)意識しないとは現在を現在として意識しないということで、つまり現在をほかの何者かととりちがえることが出来るということにほかならぬ。現在が現在であり過去が過去で未来が未来でしかないことを本当に意識できるのは、いつも若さから老いへの推移の過程にあるものだけなのだ。特権的に現在を現実として生きている若者には、それが分からない。


トラヴェリングで画面はゆるやかに滑走する。音声と映像とが微妙に同期せぬまま画面はゆるやかに滑走する。自転車を操る若者、街路や広場を行くひとびと、オペラ座を歩く女の後姿。そして現在という時が特権的な場として数瞬のはざまに反復される。自分達の実存の場としての街、その空間をとらまえると同時に、自分達の実存の時としての今、その時間をも特権的に贅沢にとらまえるその画面。


そこでは老いが若さを駆逐するのか、あるいは若さが老いを駆逐するのか。しかし若さと老いとは同じ一つのものの表裏でしかなく、だから若者と女も一つのもので、一つのものであるがゆえに結ばれることもない。
ひとびとの群の中を見送られるだけの若者の肩と、少年にしきりに口づけて涙を落とす女、その貌。そうして映画は終わる。


あるいはこの映画のアドリアーナ・アスティはアンナ・カリーナなのかも知れない。『裁かるるジャンヌ』を見て涙するところの。
言葉が肉声として聴きとられるのであれば、読みあげられる書物の言葉も生きられた言葉そのものになる筈ではある。

無垢の祈り(2015/日本)亀井亨

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9歳の、文字通りの「少女」、福田美姫の映画。両のまなこの真白さ、声のあまりのあどけなさ。

 

闇夜に浮かびあがる、ぼんやりと照明された工場群のシルエットが、まるでどこかの架空の近未来都市のようにそこに映し出される。少女が自転車で走り回る街並みは押し並べて生気なく、いわば殺伐たる末期の状景として画面に露わになる。ごく薄暗く色調貧しい画面の光彩は、そのまま色調を喪った世界の表象となる。

その中で、しかしそれでも色調として意識されるのは、その世界の中を彷徨する少女の両のまなこの真白さなのではある。その両のまなこは薄暗く色調を喪った世界でそれでも真白く光沢を放つ。視線を通した心情の授受を拒絶するような、けれど目前の醜悪にも視線を背けたりはしない(出来ない)その両のまなこ。

 

だがそのまなこが醜悪に潰されるとき、はじめて少女は声らしい声を発する。その絶叫は人間的な心情などそなえているのかどうかも怪しい殺人鬼に向けて自身の殺害を懇願する。懇願するその絶叫が、しかしまぎれもなく子供の声でしかないことが、この映画のこの映画足る由縁にさえなる。

醜悪を目前に曝け出されて、只管口を噤むばかりだった少女がそれでもふと漏らす声は、しかしまぎれもなく子供のあどけない声で、それがまなこを潰されることで、まるで潰されたまなこが声をあげるが如く、少女は声を吐き出す、絶叫する。

まなこの真白さはそれ自体がものを見つめる眼差しで無言のうちにものを語っていたが、それが潰されることではじめて叫びをあげる声は、しかしはっきり絶望を露わにする声でしかない。

こんな物語は、言わば「心傷ポルノ」とでも言われるべきシロモノでしかないのかも知れない。つまり、捏造された心傷への否応ない同一化しかめざされていないような物語でしかない、と。だがそれでもそれを見るべき映画に成さしめたのは、福田美姫という9歳の少女のまなこと声が露わにするそのかけがえのなさだったように思われる。

 

少女が自転車で街を走る、その自転車のスピード感こそは、少女の少女性の発露ではあった。そのショットが挿入されるタイミングが、映画の叙情的なリズムをさえなしていた。