読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

沈黙 ーサイレンスー(2016/アメリカ)マーティン・スコセッシ

洋画(アメリカ映画)

f:id:menmoku:20170217231412j:plain

 

映画には何があるか。何もない。映画は現実の事物と向き合うところからしか生まれない。ということは、現実の事物と向き合うことなくして映画そのものにはじつは何もない。なんらの被写体もなき無の時空に映画は実存しえない。映画は全くの「闇」を表象できない。

映画にはあれこれの現実の事物の形が映る。逆に言えば、形のないものは映らない。然しそれを言うなら、映画それ自体にはそれこそ形がない。それ自体には形がない映画が形あるものの形を映すことではじめて成立する。映画の存在論を語ればそうなる。

映画の視座は、だからすなわち、遍在しつつ偏在する神の視座に準えることが出来る。極大から極小への、遍在から偏在への可能性の中に担保される映画の視座は、しかし完全な遍在にも偏在にもなり切ることが出来ないことに於いて現世的で、現世的であるがゆえにあの世からこの世にコミットメントする神の視座にやはり準えることが出来る。

 

棺桶の中の遺体が掌中に抱くその「形」は、ただ映画=神だけが見届ける。映画=神は、ただ他者としてその「形」を見届ける。もはや遺体となった本人の意思さえも問題にしえないところで(それは日本人の妻が密かに忍ばせたのかも知れず)、ただ「形」だけがそこに遺る。尤もらしい観念は何も遺らない、何も。しかしただ「形」だけはそこに遺る。なけなしであるがゆえにかけがえのない、そしてあられもなき「形」、それが映画でなくてなんなのか(思い出すのは『ラストエンペラー』の蟋蟀)。

「ただの形だよ、形…」という悪魔のささやきは、そのじつそのまま神のささやきだが、そこにはもはや、その全体を止揚する神の意志を論うことさえもできない、ただの現実があるだけだ。ただの現実は、なけなしであるがゆえにかけがえのない、あられもなき「形」としてだけ生き続けた、ということ。

 

(本当の苦悩は、苦悩自体が救済になる。問いが真摯に問い詰められれば、問い自体が答えになる。それはそれを生きたことのある人間にしか分からない。)

 

「その後」を示したエピローグは、だから作劇上では必然になる。“転向”後の、つまりは世界の表裏が反転した後にも、人生は続き、世界自体も続く。のちの隠れキリシタン達の信仰がローマカトリックから異端認定されてしまう歴史的事実にも、それは暗に対応しているのかも知れない。つまり、それを信じた(「信仰に燃えていた」)人々の魂は、いったいどこにいったのかということ。

 

浅野忠信イッセー尾形の悪魔的な存在感が光る。浅野忠信は何をやらせても浅野忠信でつねに映画の中で攪乱的な存在。イッセー尾形は形態先行型の「演技」でいやらしさに転びかねない虚構的なもっともらしさを体現。この二人が「悪」の魅力で映画を支えていた。

革命前夜(1964/イタリア)ベルナルド・ベルトルッチ

洋画(ヨーロッパ映画)

f:id:menmoku:20170211000408j:plain

 

貌。少女的なコケティッシュを垣間見せる、けれども確実に齢の陰が刻まれつつある、その貌の映画。だからほとんどその貌にだけ画面は注視しつづけて映画は終わる。その貌があらわにするあの表情この表情は如何にも媚態だが、しかし自らを投げかけるべき確たる対象をもたぬ媚態として、映画のキャメラの前にだけ露わになり、そしてきえていく。


映画は自らを切り刻んでみせる。現在という時を何度でも味わい尽くせる特権的な場として数瞬のはざまに反復してみせる。若者は言う。自分には現在がすでにして過去の陰影を宿していると。しかしそんな認識自体が、現在を特権的な現実として生きている証でしかないことを若者は知らない。


若さと老いとは、同じ一つのものの表裏でしかない。若さの面が傾けば、老いの面も傾く。いつしかそれが裏返れば、若さは若さを意識しないように老いは老いを意識しなくなる。若さが若さを(老いが老いを)意識しないとは現在を現在として意識しないということで、つまり現在をほかの何者かととりちがえることが出来るということにほかならぬ。現在が現在であり過去が過去で未来が未来でしかないことを本当に意識できるのは、いつも若さから老いへの推移の過程にあるものだけなのだ。特権的に現在を現実として生きている若者には、それが分からない。


トラヴェリングで画面はゆるやかに滑走する。音声と映像とが微妙に同期せぬまま画面はゆるやかに滑走する。自転車を操る若者、街路や広場を行くひとびと、オペラ座を歩く女の後姿。そして現在という時が特権的な場として数瞬のはざまに反復される。自分達の実存の場としての街、その空間をとらまえると同時に、自分達の実存の時としての今、その時間をも特権的に贅沢にとらまえるその画面。


そこでは老いが若さを駆逐するのか、あるいは若さが老いを駆逐するのか。しかし若さと老いとは同じ一つのものの表裏でしかなく、だから若者と女も一つのもので、一つのものであるがゆえに結ばれることもない。
ひとびとの群の中を見送られるだけの若者の肩と、少年にしきりに口づけて涙を落とす女、その貌。そうして映画は終わる。


あるいはこの映画のアドリアーナ・アスティはアンナ・カリーナなのかも知れない。『裁かるるジャンヌ』を見て涙するところの。
言葉が肉声として聴きとられるのであれば、読みあげられる書物の言葉も生きられた言葉そのものになる筈ではある。

無垢の祈り(2015/日本)亀井亨

邦画

f:id:menmoku:20170211003135j:plain

 

9歳の、文字通りの「少女」、福田美姫の映画。両のまなこの真白さ、声のあまりのあどけなさ。

 

闇夜に浮かびあがる、ぼんやりと照明された工場群のシルエットが、まるでどこかの架空の近未来都市のようにそこに映し出される。少女が自転車で走り回る街並みは押し並べて生気なく、いわば殺伐たる末期の状景として画面に露わになる。ごく薄暗く色調貧しい画面の光彩は、そのまま色調を喪った世界の表象となる。

その中で、しかしそれでも色調として意識されるのは、その世界の中を彷徨する少女の両のまなこの真白さなのではある。その両のまなこは薄暗く色調を喪った世界でそれでも真白く光沢を放つ。視線を通した心情の授受を拒絶するような、けれど目前の醜悪にも視線を背けたりはしない(出来ない)その両のまなこ。

 

だがそのまなこが醜悪に潰されるとき、はじめて少女は声らしい声を発する。その絶叫は人間的な心情などそなえているのかどうかも怪しい殺人鬼に向けて自身の殺害を懇願する。懇願するその絶叫が、しかしまぎれもなく子供の声でしかないことが、この映画のこの映画足る由縁にさえなる。

醜悪を目前に曝け出されて、只管口を噤むばかりだった少女がそれでもふと漏らす声は、しかしまぎれもなく子供のあどけない声で、それがまなこを潰されることで、まるで潰されたまなこが声をあげるが如く、少女は声を吐き出す、絶叫する。

まなこの真白さはそれ自体がものを見つめる眼差しで無言のうちにものを語っていたが、それが潰されることではじめて叫びをあげる声は、しかしはっきり絶望を露わにする声でしかない。

こんな物語は、言わば「心傷ポルノ」とでも言われるべきシロモノでしかないのかも知れない。つまり、捏造された心傷への否応ない同一化しかめざされていないような物語でしかない、と。だがそれでもそれを見るべき映画に成さしめたのは、福田美姫という9歳の少女のまなこと声が露わにするそのかけがえのなさだったように思われる。

 

少女が自転車で街を走る、その自転車のスピード感こそは、少女の少女性の発露ではあった。そのショットが挿入されるタイミングが、映画の叙情的なリズムをさえなしていた。

この世界の片隅に(2016/日本)片渕須直

邦画

f:id:menmoku:20170211002636p:plain

 

壁にもたれたヒロインが首を傾げたショットから、画面がぐらりと傾いで水色の空へとゆらめいていくさまを、どう表現したらいいのか。漫画で表現すれば、四角い紙面にコマを割ってそれにそった読者の視点の移動で疑似的に同様の効果を産み出そうとするのかも知れないが、アニメーションにせよ実写にせよ、画面のそんな言語道断的な動揺は、けっきょくそれ自体を言葉で言い表すことは出来ない。

爆撃機が飛来する中を白鷺が目前で滞空する、その画面、その白鷺の浮遊感を、やはりどう表現したらいいのか。言葉で表現すれば、「滑るように」とか、「泳ぐように」とか、たとえばそんな文言で比喩的に形象するのかも知れないが、アニメーションにせよ実写にせよ、イメージのそんな言語道断的な蠢動は、けっきょくそれ自体を言葉で言い表すことは出来ない。

 

水色の空にパッ、パッ、パッ、と華が開くように弾幕の黒煙が点描される。それは実在の光景に模されたところの、しかしまさに人によって描かれたイメージそのものでもある。それを絵にしたいとヒロインが瞬間的に衝動するそのイメージは、しかしまさに描かれた絵そのものでもある。絵の中の人物が、絵を描く主体として登場することで、絵のイメージはメタ化する。メタ化することで描かれた絵はたんなる絵である以上にリアルなイメージそのものとして、むしろ現実化する。

 

アニメーションにせよ実写にせよ、その中のイメージはさまざまな様態に於いて“動く”ものとしてそこに実存しようとする。“動く”ことは、ものにものである以上の「役割」をあたえる。「役割」とは現実の中に於ける条理的な機能のことであって、即ち“動く”ことに於いてイメージは条理的な総合、つまり「物語」に参与し始めることになる。そしてものは「物語」に参与することで、逆接的に総合の中に於ける部分としての自身を生き始めることにもなる。

当たり前のことかも知れない。しかし絵が画面として動き出すとき、そこから何かが始まることの原初的な運動の感覚が、このアニメーション映画をも支えている。それはヒロインの鉛筆を持ち絵を描き出す動作や、包丁をさらりとまな板の上を滑らせる仕草や、あるいは焼夷弾を見つめてみるみる双眸を充たしていくあふれる涙に宿っている。(であればこそ、タンポポは風に揺れていてほしかったようには思うが。)

 

白色のモチーフが頻出する。白鷲、白兎(白波)、白米、白雲、あるいは白い紙、白い光(原爆の閃光)、etc…。しかし、大体「白色」とはなんなのか。それは、色の欠如ではないのか。白色自体も色ではあるが、しかしそれはどんな色をも重ねることのできる色であって、どんな色にも染まることのできる色でもある。それは、原爆の閃光でさえ白色としてつよく印象づけられるように、本来的に何物でもない色であると同時に、また何物でもありうる色でもある。善でも悪でも、正でも邪でもない(ある)。それそのものとして、遍在しながら偏在すること。

 

それは「戦時下」の物語だ。「戦時下」を日常として生きざるを得なかった人々の物語だ。朴訥素朴、呆然たるヒロインが、いつしか自分自身の人生に目覚めざるを得なかった「戦時下」の物語。焼夷弾がそれまでの皆の生活の場所を焼き払おうという、そのさまを目撃して猛然と消火にかかる瞬間こそ、ヒロインが自分自身の意志で生き始めた瞬間かも知れないが、それは「戦時下」が他者との共生につよくヒロインを結びつけたからで、猛然として自分達を圧し潰そうとする暴力に抵抗する意志がめばえる(めざめる)のは、いわば必然だ。だから玉音放送を聞かされてやはり猛然と憤激するのも然るべきで、それは亡き子を想い出す(物陰での)義姉の号泣と対応している。

 

瞬間暗転する画面。義姉から家に帰るように言われたヒロイン、その潜在的な心象を表現するかのような突如たる断絶としての黒画面が挿入される。黒画面は、しかしそののち姪っ子の死をかんがみるヒロインの無意識の場面でも背景の暗幕として反復される。姪っ子の死は、ヒロインに決定的に、黒画面に退行することを許さない心傷となって刻まれる。姪っ子と同時に絵を描く右手を喪ったことは、だから象徴的になる。失われたものが、決定的な共生への楔になる。

 

「8月15日」以降も、物語はつづく。それは何も特権的な日ではない。それが特権的なものとなるような歴史観をこの物語はつづらない。終わりでもなく始まりでもなく、特権的な瞬間に集約されるのでもない、日常としての人々の歴史の物語。

最近見た映画(その02)

映画覚書

△『暴力教室』(1976/日本/岡本明久)

松田優作主演作。時代劇から任侠劇へと至る定型を学園劇に移植。なのでラストは討ち入り、殴り込み。主演なのだろう松田優作が三白眼をぎろつかせて凄みをきかせる演技はブルース・リー由来なのか。ほとんど冗談みたいな熱演だが、冗談が本気に見える域にまで達しているので、納得させられてしまう。

 

〇『溺れるナイフ』(2016/日本/山戸結希)

ショットとショットがかみ合わない、つながらないことが、逆にそのさなかに描かれる二人を運命的につなぎ合わせてしまう、という現象が起こりうるのはなぜなのか。本来つながっていないものが暴力的につなぎ合わされる。その暴力的な操作が、しかし操作的な意図を超えて対象と対象をつなぎ合わせてしまう。破綻の際に映画の構造が差し出されて、それでもしかしありうべき映画に帰着させられる。それが本当に成立しているか否かは、結局現実の映画体験としてそれが成立しているか否かにしかかかっていない。

そんな際どい細部はありこそすれ、しかし全体の作劇自体はやはりつまらない収束に落着するものでしかない。少年少女は自分達の手をけがして、「命」のやりとりをすべきだろう。

持続と断絶を操作するのにも、もう少し工夫は要るように思われる。だらしない台詞の垂れ流しは緊張を殺ぐものでしかなく。

 

△『皆殺しの流儀』(2014/イギリス/サッシャ・ベネット)

クズガキどもを引退ギャング達が退治するって話。フィックスで捉まえることが出来ないから人物のまわりをまわってみるだけのキャメラとか、今どきありがちな演出放棄。引退ギャング達含めて、大人がいない。拷問場面のやりとりの幼稚なつまらなさ。

 

〇『孤独な天使たち』(2012/イタリア/ベルナルド・ベルトルッチ

ベルトルッチは女性を愛している。息子が母親を愛するように。また若者を愛している。若くあるものの若さを愛するまなざしは、老いてあるものの若さのまなざしでもある。

人物を生理でつかまえる演出。そこにあるひとをそこにいるとおりにそこに映し出す。

 

◎『人魚姫』(2016/中国=香港/チャウ・シンチー

たとえば断崖の縁に座礁した難破船の舞台装置としての造形からして、こんなワンダーフルなアトラクションの発想が可能なこと自体、「香港」という映画の国に生まれる映画故のものと思えて仕方ない。また肉体を傷つけるに仮借なく傷を傷として露わにさせるセンスもまた、香港という中国圏の土地柄故のものと思えて仕方ない。

人魚とは、モチーフとしては飽くまで変形された人体であり、その人体を活用してこそ活劇は活劇足り得る。ときに惨酷とも言える活用のされ方に及ぶとしても、それこそが活劇の中で彼ら人魚の人魚たる由縁を証するものともなる。

人魚であることが露見する展開は、しかし呆気なく展開する。まことに呆気なくあっさり。人魚に実業家が惚れる瞬間が、一瞬の切り返しで端的に描かれる。至極端的に。この果断さは感動的ですらある。見る者は、その果断さにこそ笑って泣く。それこそ映画。

人魚の長老じみたばあ様の超能力。チャウ・シンチーのその超能力志向(?)には、尤もらしい神秘主義の影はみじんもなく偉大さへの崇敬だけがある。冗談も本気でやれば見る者も本気で見る。