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映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

マッドボンバー(1973/アメリカ)バート・I・ゴードン

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爆弾魔チャック・コナーズ、刑事ヴィンセント・エドワーズ、強姦魔ネヴィル・ブランド。

この三人のおやじどもが、その独特に型にはまったキャラクターで映画を支える。とくにチャック・コナーズは、2メートル超もあるらしいその体躯をもてあます様に身を屈め、背広を着て眼鏡を掛け、手製爆弾を忍ばせた紙袋を小脇に抱えて巷間を歩き回るその姿が、何とも言えずオカシく、可笑しく、同時に何かしらもの悲しい。


映画は冒頭からして爆発の被害者達の酸鼻極まる死骸をあからさまに映し出す。だが、爆弾魔にせよ強姦魔にせよ、その凶行の描写はむしろ淡泊で、呆気なく爆発は起こるし、呆気なく強姦は為される。強姦の被害者は呆気なく身を投げ、また呆気なく縊り殺される。
映画ってこんなことでいいのかしら、と思わないでもないが、しかしそれもちゃんと映画になってしまうように見えるのは、やはりあの三人のおやじどもの独特に型にはまったキャラクターの適格ぶり故なのかも知れず。


この三人、物語として読み解けば、行き場もない鬱屈を持て余さざるを得ずに生きているという意味で共通している。故にこそ、チャック・コナーズは、最期に無惨な自爆の死骸を不様に白日にさらさねばならない。まるで轢き殺された獣のようだが、しかし人としてのなりをとどめた肉塊。その不様な無惨を敢えて「これを見よ」とばかりに見せつけるこの映画は、行き場のない鬱屈のもの悲しさの映画だったのかも知れず。

 

ネヴィル・ブランド演じる強姦魔が、裸体の妻の映写映像に見入って興奮する場面、そのイメージは、なにかが妙でもある。尤もらしく演出するというよりあられもなく不様を露呈させてしまう映像の暴力がにじんでいるような感がある。そしてネヴィル・ブランドは、興奮の絶頂でチャック・コナーズの爆弾に爆殺されて見事に吹きとぶ。やはり、なにかが妙。

最近見た映画(その01)

◯『映画 「聲の形」』(2016/日本/山田尚子

ミュージックビデオ風なスタート、音に(世界に)無邪気に心開いているかつての少年。水の流れの中に身を踊らせる、いつでもそこに水の流れがある、花火の音。行為の意図されざる反復は、その意味合いの対称性が投影されることで、主人公の男女の運命的合一を暗示。演出的な一貫。

家族=大人が大人でいてくれてこそ、子供は子供を十全に生ききることが出来る。

環境=小学生から高校生まで同じ土地、同じ友達という舞台設定。

コミュニケーション行為が健全に機能するなら(つまり話をすることが出来るなら)、「いじめ」は人間を極端には疎外しない。コミュニケーション行為の不全こそ今日的「いじめ」の悪意なのでは。

人物同士が話をする場面になるとどうしても映画としては停滞する。描写ではなく説明になる。

 

△『COP CAR/コップ・カー』(2015/アメリカ/ジョン・ワッツ)

アメリカ映画の中に現れる悪徳警官の、あの勿体ぶった腰を落とした歩き方、そして黒のサングラス。

サスペンスのアイデアがいまいち失笑をさそうのは作劇の中心が子供だからか。

子供には人殺しはさせない、しかし単なる遊びでも終わらせないという教育的劇構造。

 

◯『WE ARE Perfume WORLD TOUR 3rd DOCUMENT』(2015/日本/佐渡岳利)

素材のよさを活かすべくの、余分な要素の削ぎ落とし。御決まりのインタビューにも敢えて質問者の質問はかぶせず、三人の応答だけをきりとって出す。

締めで「MY COLAR」だけは全曲流すセンスは三人の心意気を理解したうえでの選択。

 

◎『目撃』(1997/アメリカ/クリント・イーストウッド

森の中を逃走するにも、決して息を切らすことなく、一定のペース配分で計ったように、しかし汗はしっかり掻き乍ら走り抜ける老練ぶり。目の前に大統領が現れて人殺しが演じられてもそのこと自体にはほとんど頓着しない冷静ぶり。けれどもテレビの中のその男がひととしての矜持を踏みにじるような所業を誰知らず露呈したそのさまを目撃して、俄かに一人で戦う決意を固めるその熱血ぶり。

文字通りの「ベテラン」。その道の「プロ」として、そしてひととしての矜持あらばこその映画。

 

◯『ジュリエッタ』(2016/スペイン/ペドロ・アルモドバル

路上でふと行き違う二人の女性、半身ショット、そのリバース。そのように呆気なく、ヒロインの運命を変える報告がとびこんでくる。

去っていく娘の場面に、ふとカットインする死んでいった男達のショット。それだけで、それが去っていく娘との長い別れの場面だと、直感的に把握される。

あまり重ねて説明をせず、描写を淡泊にきりはりする。それでも映画になるし、物語になる。

 

◯『エブリバディ・ウォンツ・サム!! 世界はボクらの手の中に』(2016/アメリカ/リチャード・リンクレイター

80年代初頭の大学生。典型的風俗映画。ジェイソンにチェーンソーで八つ裂きにされるタイプの若者連中の青春群像なれど、それらしい人生蘊蓄もチョト含み尤もらしく設える。にしても、青春=モラトリアムという認識図式は、所詮「青春」なる虚構を生活する余裕をあたえられた連中のざれごと。

灼熱(2015/クロアチア=スロベニア=セルビア)ダリボル・マタニッチ

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灼熱とはなんのことか。あるいはそれは画面に刻印された陽光のことか。しかし灼熱と言うにはそれは多分に翳りを帯びて、けっして溌剌とした輝きを見せつけたりはしない。

同じ男女の役者が、1991年、2001年、2011年と、十年ごとに時代が区切られた挿話の中で、クロアチアセルビアに分かたれた男女の関係を演じている。

灼熱と言うには多分に翳りを帯びた陽光が、それでも見ていてことに意識されるのは、2001年の挿話かも知れない。

 

内戦後の廃墟同然となった故郷に戻ってきたらしいセルビアの母娘が、クロアチアの青年に家屋の修繕を依頼する。最初は内戦で殺された家族の敵として互いに心の距離を隔てていた娘と青年は、しかしいつしか密かに互いを意識し合い、ついにつかの間体と体を重ね合うに至るが、けれどそれはそれだけのことで、つまるところふたりは人として結びつくこともなく、そのまま分かたれることになる。
半ば廃墟のように傷だらけの襤褸けた家屋に差し込むぼんやりと翳った陽光が、まるである種のロシア映画のそれのように、若い男女の裏腹な心身のせめぎあいをものも申さぬつややかな表情で、やわらかく包み込む。娘の指が弄ぶ枯れかかった草木の形、窓の外から吹き込む乾いた微風の音、人間がその身をあずける大地の存在感が、さりげなく画面の中に息をはずませる。(ときに女性の表情に密着する画面が、表情の肌理そのものをふと“発見”させさえする。)
秋が夏の焼け残りであるように、内戦の焼け残りのような時間の堆積を感じさせる翳った陽光の中で、互いを隔てるむごい記憶を引きづったものだろう若い男女が、それでも互いをつかの間求めあう。それが突然むさぼるような体と体の求めあいに至ってしまうのは、ふたりにとってまともな言葉の交感はむしろ抑圧された行為としてあるからだ。
陽光は飽くまで翳って、若い男女のつかの間の逢瀬と離別を無言のうちに包み込む。何よりこの陽光の妙味ありきでこそ、この映画はみずからが映画足るを示す。

 

1991年の挿話が水浴びを経ることで始まり、2011年の挿話もまた水浴びを経て終わる。(繰り返される水浴びには、新生へのほのかな希求が込められてもいるのかも知れず。)

温みを感じさせる遅い朝の陽光に照らされた玄関の扉は、開かれたまま、映画はふと終わる。その刹那のきりとりかたにもまた、この映画の映画足る由縁が息づいている。

ピートと秘密の友達(2016/アメリカ)デヴィッド・ロウリー

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空撮から始まる。なぜなら、それは空飛ぶ獣の物語だから。そんな律義さに、既に映画の良心がにじみでている。空撮は映画の中で幾度となく敢行されるが、それらが如何にも空飛ぶ獣から見おろされたようなやわらかな軌道を飛翔しているように見えるのは、たぶん偶然じゃない。

 

緑色の柔和な毛並をたたえた幻獣を巡る小さな物語は、アメリカ映画によくある親と子の物語でもあるが、ロバート・レッドフォード演じる父親がそこにいることで、物語は“子供達”の映画とも言える構造を見せることにもなる。たとえば、森の奥深くで幻獣にはじめて遭遇して、逃げ帰る途中にはっきり「あれはドラゴンだ!」といちばんに断定するのは、のちに利得を考えてそのドラゴンの捕獲に躍起となる兄貴だったりする。なぜなら兄貴は、ロバート・レッドフォード演じる父親から昔さんざんその話を聞かされた“子供達”の一人だから、というわけだ。またそのロバート・レッドフォード演じる父親が、現に話を聞く子供達に、森の奥にドラゴンを見つけることが出来るかも知れないし、あるいは逆にドラゴンに見つけられてしまうかも知れない、などと表現する台詞のアヤ(それは“出逢い”だということ)一つとっても、この映画に息づく良心はうかがわれる。

 

細部にまで配慮する脚本の志向は、ちょっとした演出的な趣向としてもあちこちに反映されているとも言える。ファンタジー映画によく描かれる爬虫類系の怪獣としてのドラゴンならあり得ない、人間をやさしく抱きとめることが出来るその器用な手は、最初に両親を失った少年を救い上げ、また最後に谷底に転落しそうになる車をも救い上げる。またその緑色の柔和な毛並は、少年にせよ女性にせよ、なぜかしら親愛的な人間の手に触れられるとにわかに生気を回復するように艶めき立ったりもする。そして何より、劇中それらの動態的な演出は何気なくだが印象的に反復される。動態的な演出の形を変えた反復がなぜ効果的なのかは映画というものの謎かも知れないが、あるいは物語は自己自身の無根拠性を自己自身の内に反復される運動を介して自己充足的に補填するものなのかも知れない。

 

兄貴をはじめとした町の男達に捕縛された手負のドラゴンが、透明になって姿を隠す場面。ドラゴンに親愛の情を抱く女性は、ふとその立ち位置をずらしてみることで、透明になったドラゴンの姿を朧に見出すことになる。その立ち位置をずらしてみる足元を瞬間画面にきっちり切り取るセンスこそ、映画的なセンス・オブ・ワンダーなのじゃないか。世界はちょっとだけ立ち位置をずらしてみるだけでつい先程までとは途端に異なる姿を見せてくる、という直観が、そんなささやかな細部への拘りにしかしはっきり露わになる。

 

良心なのだと思える。それは映画の作り手にとっての世界の見え方そのものであって、即ち映画の切り取り方そのものとなる。映画は世界から切り取るもので、切り取るその手は世界の見え方に基づいてそれを切り取るから。つまり作り手の素朴な良心の反映がそのまま映画となっている。

 

あの鬱蒼とした針葉樹の森林は、どうやらニュージーランドらしい。森林の木立の文字通り“林立”する様子がそれだけで印象的なイメージにもなっている。

君の名は。(2016/日本)新海誠

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物語はあらかじめ入れ替わりが成立してしまったところから始まる。入れ替わりに至る前段としての日常的な描写はかえりみられず、むしろ入れ替わりをこそ物語の前提として日常的な描写を始める。奇跡はすでに起こっている。あとはひたすら帳尻を合わせていくだけ、というシナリオ。

予定調和は至極当然で、語りの時間は二人の出逢いという一点に向かって収斂する。それを物語と呼ぶにせよ、人生と呼ぶにせよ、その時間を生きているのは間違いなく一個の主体である限り、語りの時間は予定調和に過去を現在へ帰結させることになる。その現在に於ける過去の忘却は、まがうことなく現在の特権であり、忘却が可能なのは人間が現在の時間を生きているからなのだ。しかし同時に忘却は想起の逆説的な可能性でもあり、忘却される事柄は同時に想起されうる事柄ともなる(「一度あったことは忘れないもんさ、思い出せないだけで」@『千と千尋の神隠し』)。いずれにせよ忘却と想起の対象となる過去の存在論的な実在自体は揺るがないものとして展開される。

 

ディテールのきめ細やかな描写は、世界の豊かさの表象足り得るか。それが静止的な対象の描写にとどまるのなら、それは耽美的な感傷主義の玩物でしかないかも知れない。だがそれが事物の動態的な描写におよぶのなら、あるいはそこで世界のいっぺんとしての命が生きられることになるのかも知れない。ともあれ、事物が事物であるためには、世界が実在していなければならないのではないか。世界が実在しているとは、つまり図としての事物が描き出されるべき地としての背景がそこに揺るぎなくあるということで、揺るぎなく地がそこにあるからこそ図は図として際立ち、すなわち独自の命が生きられることにもなる。

画を描く少年と糸を紡ぐ少女というモチーフは、だからこその選択だろう。二人は二人の仕方で互いの世界を接近させる。その世界に存在するのはけっして二人だけではなく、友人や家族や仲間がその世界の成立に携わってくる。画や糸という物象(物証)が映画の表象の中で、物語論的な意味づけを超えてそれ自体の命を生きていたかどうかは疑わしいが、たんに点景的に描写されるだけの静止的な対象にどとまっていなかったことは確かではある。

 

物語は世界を生み世界は物語を生む。神話の昔からそれはそうだ。そして世界とは空間のことであり物語とは時間のことでもある。物語と世界、時間と空間は相関的なものではあれ、優位にあるのは時間なのかも知れない。即ち物語は、世界を書き換えることが出来る。物語が命を授かるのは世界からなのだが、世界から授かる命を物語は育てあげ活かすことが出来るのだ。時間=物語とは過去から現在、そして未来への過渡にあるものかも知れないが、それは世界にその生成を委ねたればこその認識であって、本来その世界を生成していくのは、時間=物語なのではある。

したがって、過去は書き換えられる。物語は世界の優位に立つから。忘却は常に想起の可能性に開かれているから。

 

キャラクターがアニメーションの中で画を描くというモチーフは、無論映画の作り手の自己言及とも見て取れる。アニメーションを創ることと物語が生まれることとがそこで重なり合う。巡礼、むべなるかな。