映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

ダンケルク(2017/イギリス=アメリカ=フランス=オランダ/クリストファー・ノーラン)

f:id:menmoku:20170919202359j:plain

 

画面に水平線が広がる。そしてその水平線はそのまま映画の画面の基本的な水平軸ともなる。そしてその水平軸が、ときに戦闘機の機体、ときに艦船の船体に固定された画面の中で、左に傾き、右に傾き、つまり動転する。

本来なら直立する人間にとって世界の安定的な水平軸となる筈の水平線が、しかしここでは左に右に動転するものとして映し出される。沈没する船体に於いて世界が倒錯的に反転する表現は海難ものの映画にはつきものだが、ここでは艦船の船体に固定された画面によって船体ではなくむしろ水面こそが傾く。水平線の持続的な延長としての水面が、倒錯的に反転することで、世界そのものの暴威として無数の無名の兵士達を呑みこんでいく。戦闘機の機体に固定された画面も、水平線の左へ右への動転をこそ映し出すことで、世界の中に視点があるのではなく視点の中に世界があるという閉塞感をこそ表象する。無数の無名の兵士達とは異なり戦闘機のパイロットは熟練者であり、そんな閉塞感に呑みこまれてしまうことはないとは言え、一旦機体が水面に不時着すれば、たちまちパイロットも自らを呑みこもうとする世界の暴威そのものとしての水面に立ち向かうことを強いられる。

 

この映画の人物は饒舌には物を語らない。陸、海、空の各個のパートの時間軸が錯綜する時制の中で、人物達は互いに言葉をかけあいこそすれ、それらのセリフが尤もらしい対話を構成するわけではない。尤もらしい対話を構成しない、あるいはし得ないのは、むしろその分断された時間軸が錯綜する時制にも要因はあるやも知れず、物語の中の事象は帰納的に救出のタイムリミットへ予定調和的に回収されるから、対話が物語を推進させる現在時制の緊迫性はむしろ希薄になっているのではないか。

セリフの抑制された、あるいはCGによる描出の排除された作劇的、映像的な演出は、しかし映画の画面を構成しえているのかと言えば、疑問はある。ここには、いわば「物」は何も映っていないのではないか。「物」とはつまり、物語を推進させる有機的な構成物のことでもあり、それと同時に物語を逸脱する“それ自体”としての被写体のことでもある。たとえばある物語の中である役者がある人物を演じる時、それを見る者はそれを作劇の中のその人物であると同時に現実の中のその役者としても見る。映画の映画なるものとしての肌理、その艶は、その虚実の背反的な合一と乖離の狭間に生じうるものでこそあれ、たとえば役者の配役からみても有名無名各個の役者を「それらしい」配役でしか陳列できないこの映画には、「物」の光(虚)も陰(実)も映し出されてはいない。

 

帰投を放棄した戦闘機が最後にランディングする。敵地に不時着することが判っていても敢えてしかし懸命に着陸を期して手動する動作こそかろうじて人間の、物語の動作ではある。

散歩する侵略者(2017/日本/黒沢清)

f:id:menmoku:20170913160129j:plain

 

「概念」を「奪う」。まずこの大前提からしてあまりに抽象的ではある。抽象的であるが故に、つまりは「画」になりにくく、結果映画は抽象そのものとしての言葉=セリフのやりとりにこそ、依存することになる。

たとえば「家族」、「所有」、「自由」、「仕事」etc…。それら本来なら現実の諸事実から帰納的に導出される筈の抽象としての「概念」が、逆にそれ自体が何らかの本質であるかの如くそこに措定されて、そこから演繹的に導出される言語的な記述(ともなうその内的なイメージ?)が、恰もその“正解”であるかの如くに「奪われる」ことになる。これは端的に、映画に向いていない。「概念」が「奪われる」場面に於いて、人物同士の対峙する様子がほとんど演劇的な段取を演じているように見えてきてしまうのもさもあらんで、そこでは言葉は無の認識に至る為に最終的に棄て去られるべき道具(『CURE/キュア』の間宮に於ける如く)ではなく、本質それ自体を担う認識の当の目的に化してしまう。

当の目的と化した言葉はそのやりとりの中で抽象としてうかびあがり、言葉自体のまわりをめぐっているだけの空疎な認識が事象そのものの認識ととりちがえられてしまう。映画が現実の諸事実から非言語的な具象に於いて描出すべき抽象が、作劇に於いて先取的に前提されて主題化されるから、映画は描出される筈の具象を見失わざるを得ない。

 

が、そんな本来なら非映画的なまどろっこしさが、逆にこの映画の唯物論的な抽象性に転化されなくもないのが、不思議なところなのでもある。唯物論的な抽象性とはそれ自体語義矛盾のようでもあるが、抽象の理解に堕する筈の非映画的なまどろっこしさは、こと「愛」という極端な抽象的「概念」をめぐって言語それ自体の表示的な具象性へと向かってむしろ洗練されることになる。なんとなれば「愛」は「愛」でしかないという、文字通りのみもふたもない言語それ自体の現実性。

当たり前なら、あれでありこれでありそれでありといった具体的な描写が重ねられることで映画を観る者に内的に把握される観念的な感触である筈のものが、単純に「愛」という一語に逆説的に収斂させられてしまうことで、「愛」は「愛」でしかないという文字通りの言語それ自体の表示的な具象性が、そのまま概念自体の唯物論的な抽象性を証だててしまう。「愛」は何物にも還元されない。還元されないそれ自体としての現実性が、「概念」として観客に見えないところから見えないところへ確かに受け渡される様を、むしろ観客は「見る」。

この映画の作劇全体が、帰結的になぜかある種の感動の感触を与えうるのは、「概念」を「奪う」というアトラクションの本来は非映画的なまどろっこしさが、徹底的に抽象的な「愛」の「概念」の前で空転し、それに於いてむしろ「愛」は「愛」でしかないという抽象性それ自体の表示的な具象性が、事象そのものの認識になりかわってしまうからではないのか。

 

劇中長澤まさみ演じるところの妻は、けっきょく現実に生起する事象に向かっては何もなしえない。何もなしえないままいたずらに空転し、どうしようもないまま何物にも還元されない「愛」をだけ、松田龍平演じるところの宇宙人化した夫に受け渡す。こんな図式的で陳腐な話がなぜ妙に慈しむべき話に見えてきてしまうかと言えば、それはまさにそれが図式的で陳腐な話として臆面もなくそのままに描き出されているからだ。

黒沢清の映画=世界は、恐らくいつも結論ありきなのだ。現実的=相対的諸事実からの尤もらしい帰納的な帰結としてではなく、演繹的な絶対性の元に事象が図式化される、黒沢清の映画=世界。愛こそすべて、みたいな単純率直な絶対性の観念(『大いなる幻影』)、その自由。

 

『CURE/キュア』に演じられた如き概念奪取はしかし言語を本質的な前提とするかぎりは茶番に如かず。概念を奪われた人々の奪われたが故の解放の様々は、やはり図式的で陳腐になるが、それ故に妙に微笑ましくも見えてしまう。『回路』に描かれた如き終末絵図はしかし呆気なく「愛」の前に頓挫するかぎりはやはり茶番に如かず。それでも二人は黄色い車に乗って「行けるところまで行く」。終末の光景を夕陽と見違えるのではなく夕陽を終末の光景と見違えることは、端的に肯定的な世界の存続の感覚をこそ暗に示す。

長澤まさみが素朴に年相応の妻を演じているのは慕わしく。松田龍平は“目覚めた”瞬間、確かに“目覚めた”表情を見せていた。

 

何気に爆撃機と人物との対峙・対決の場面には胸躍るものあり。爆撃機が突如頭上を飛び抜け、人物の視界の先でゆっくりと旋回しつつこちらを狙い撃つべく向かってくる図、運動する物体のシルエットがもの言わぬままほのめかせる瞬間の意思、その微かな戦慄のきざしに胸躍る。ふっとばされる人物の影がしっかり爆炎の中に映るのもいい。

FAKE<ディレクターズ・カット版>(2016/日本/森達也)

f:id:menmoku:20170820053926j:plain

 

猫が頻りに画面に姿を見せる。誰でも気がつくが、しかし何故猫なのか。むろん「猫」であることに殊更意義や意味が認められるわけでもない。それは意義とか意味とかいう尤もらしい判然とした観念とは一見して無縁で、周縁的、付随的な細部に過ぎない。だがだからこその猫なのだ、とは言える。たとえば夫妻の夕食風景での豆乳なり、来客の際のテーブルの光景なり、まどろっこしい「通訳」の段取なり、ベランダで吸われる煙草なり、走り抜けていく近所の電車の轟音なり、猫と同様、一見して真偽の黒白をつけようとする世間的な関心に於ける「意義」や「意味」とは無縁で周縁的、付随的な細部にしかならない。だがそんな細部をこそ、この映画は映し出すべきものとしてそこに切り取って見せる。切り取って見せるそのやり口は、すでに制作者の意図の範疇にある限り演出的な手管だとは言えるが、だからと言ってそれらの細部がドキュメンタルな細部としての内実を喪うわけではない。肝心なのはそれをクローズアップする演出的な手管が当の被写体との関係をどう生きようとしているかということでしかない。

 

映画は一定の時間的持続の元に展開する。時間的持続は一言には曰く言い難い体験の総合としての漠然とした印象に結実してこそ内実のある経験とも化す。映画が音声を獲得したことによって映画に於ける沈黙もまた発明されたとする言説もあるが、その「沈黙」の中にはむろん沈黙し続ける時間的持続も含まれていることになる。沈黙し続ける時間的持続が映画の体験としての内実をはらみ得るのも、そこに通常音声が介在していて、その欠如としての沈黙状態が際立ってこそのことだ。それは当たり前と言えばあまりに当たり前のことかも知れないが、それこそがこの映画のラストシーンでこの映画の内実を決定づける条件として機能する。最後の最後に敢えてウソかマコトかの二者択一を迫られた佐村河内氏は、一定の時間的持続の中けっきょく沈黙し続けるしかない。この沈黙状態の一定の時間的持続こそ、この映画が映画としてすくいあげるべき内実の最たるものだったのではないか。それはそのあとになんと具体的に応答したかの是非を越えて、沈黙の「質」それ自体として佐村河内氏からの暗黙の応答になっている。判然足る意図を介さない、しかしそれ故にこそ佐村河内氏のいつわらざる実存が映画を見る者の前につかの間あらわになる瞬間。

 

 

そんな「瞬間」は、もちろん取材期間を通じた制作者と佐村河内氏の具体的関係をかもしだしたその長期的な時間的持続の中にこそ成立する。そしてその「瞬間」はそのまま映画自体の時間的持続の中であれこれの細部に付き合ってきた視聴者にとっても共有し得る「瞬間」になる。そこまで映画によって何げなくしかし意図的にクローズアップされてきたあれこれの細部は、そこでその沈黙の「質」を形成し、つまり映画体験の内実として想起されるものとなる。

 

それにしてもなにもかもが曖昧にまぎれている。難聴者なのか、作曲家なのか、最後まで曖昧にまぎれたまま。劇中で作曲された楽曲も一応それらしいようで、けれどそれらしいだけのような楽曲だし、それをまんまとスタッフロールに当てはめるセンスはこの映画自体の印象をパロディ映画のような感覚に落としこみさえする。その意味で徹底していて、言葉通りに「諧謔」的ではある。

ディレクターズ・カット版で追加されたシーンに、佐村河内氏を擁護する盲目の少女のくだりがある。それもまた切実な細部だ。たとえばそんな人間関係の一面を生きている当たり前の生活者の生活を、世間の世評に無責任に無自覚に便乗するだけの人間の誰に脅かす権利があるのか、とは思う。

最近見た映画(その10)

◎『突然炎のごとく』(1962/フランス/フランソワ・トリュフォー

音が、声が、アフレコなのだろうか。少なくとも同録ではない。同録ではないが故に、その音も声も、むしろ映画にサイレント映画的な肌合をかもし出す。人物は唐突にアクションを起こす。あるいは神経症的にケレンな性(さが)を生きる。それを映画の画面に現実化させているのは、そのアフレコと、そして編集なのかも知れず。

音と声のサイレント映画的な心理主義的表象との乖離と、次の瞬間に今の瞬間と隔絶した画面(コマ)を突如挿入されてしまうかも知れない断裂的編集が、人物の唐突なアクションを喚起し、神経症的なケレンを性(さが)とせざるを得ないその像に結実する。

 

◎『クーリンチェ少年殺人事件』(1991/台湾/エドワード・ヤン

明滅。なぜこうも明滅に偏執するのか。段取りとしてまず明かりをつけた方がてっとり早いような場面でも、なぜか人々はすぐには明かりをつけない。やっとつけたとしてもそれは裸電球や懐中電灯の人工的で機械的な光であることがほとんどだ。それはぼんやりと温もりを帯びて灯される暖色的な光でもなく、あくまで機械的なオンとオフのスイッチングで明滅する白色光だ。そしてそれはなぜか大体の場合不安定で、回路か何かの接触具合でかってに点いたり消えたりの明滅を気まぐれに演じる。

明滅はそれゆえか、暴力的な光でもある。点いたり消えたりを繰り返すことは、命の燈明の明滅のごとく人物達を光と闇の狭間に翻弄する。あの殴り込みの場面は、なぜ闇の中に明滅する光の断片の場面でなければならなかったのか。そしてそれは、なぜ機械的な明滅を気まぐれに演じる人工的な光の断片でなければならなかったのか。

ライトが点く、消える、そのことに判然たる意味がない。少なくとも人間的な意味がないその場所で、それでも人間が互いにせめぎあい、いだきあいしている、それを只管示すのがこの映画の一面ではあるのかも知れず。

 

〇『郵便配達は二度ベルを鳴らす』(1942/イタリア/ルキノ・ヴィスコンティ

女は死ぬ。男は生き残る。その逆はありえないのかと言えば、恐らくありえないのかも知れず。物語は生き残る者のものでこそあれ、男の数奇な悲劇の顛末としてこの物語は幕を閉じる。

女が死ぬ、その死んだ女がまさしくたんに死んだ女と化してしまうその端的ぶりが、そのまま当時の倫理観の程度だったのではないか、という感じはしてしまう。人形のようにぶらりだらりと垂れさがるだけの肢体、見開かれたままのまなこ。ついさっきまで不安と希望の狭間でそれでも人間的におののいていたその女が、たんなる死せる人形になってしまう。希望を阻まれての絶望どころかそれをひとっ跳びで暴力的な断絶に陥れてしまう運命論。

その死に様ならぬ死に体の露骨なありようこそ、この映画がその国柄のその時代の映画であることの端的な表徴であるかに思えて衝撃的。

 

〇『イップ・マン 序章』(2008/香港=中国/ウィルソン・イップ)

中華圏拳法映画につきものの、あの音。バッ、バッ、バッという袖や裾が空を切っているらしいあの音が、ここにも健在。しかしその音を実際にまとう資格があるのは、その音をまとうに足るだけのキレのある身体動作を繰り出すことのできる役者達だけ。その意味で、やはりそれは選ばれた者達の映画なのだとは言える。

日本軍は、ほとんど『スター・ウォーズ』の帝国軍並みの悪役を演じさせられているが、日本人として見てしまうと、どうしてもこんな日本兵達にも国に帰れば親や兄弟や妻や子がいるのヨ、とは思う。

 

〇『イップ・マン 葉問』(2010/香港=中国/ウィルソン・イップ)

『序章』よりむしろ見どころは多い。ドラマ自体の構造としては『序章』と同型だが、たとえばイップ・マンが最初に武館を構えるビル屋上の如何にもセットじみていて魅力的な造形なり、魚市場での乱闘シーンのありきたりな小道具を活用したアクションなり、対決場面でテーブルやリングという限定された空間を(文字通りに)舞台にする設定の妙なり、映画的な趣向を的確に意識した意匠が愉しい。

 

〇『ハリケーン』(1937/アメリカ/ジョン・フォード

劇中何度も美しいダイブを披露するジョン・ホール。彼はあちこちの場面でダイブする。その肉体を当たり前に水面にだけでなく、地表の斜面にまで投げ出してダイブする。それはつまり「投げ出す」というアクションなのだろう。「投げ出す」というアクションはそのまま献身と一途の表現ともなって、ジョン・ホール演じる青年のキャラクターそのものとして彼を画面の中に活躍させる。

ここでも『駅馬車』に並んで幾分アルコールに毒された感のあるトーマス・ミッチェルは、その目線がどこかしら夢見がちに宙を漂う。そのように表現される彼は、思うにこの映画に於ける「神」に通じたキャラクターとして描かれている。この映画に於ける「神」は、しかし決して人間的な慈悲の次元に生ぬるい奇跡をもたらすような存在ではない。なんとなれば、もちろんハリケーンの暴威こそがそれを体現する。そこでは善男善女見境なく波風に呑み込まれ、楽園は波風の地獄へと変貌する。その様が恰も世界の終末の到来であるかのごとくに鳴り響き続けた教会の鐘の音は、教会の崩壊によって初めて鳴り止む。

ジョン・フォードの信仰は「神」を人間の精神の基軸として描くだろうが、けれど「神」を人間の絶対的・超越的庇護者として描くことはしない。飽くまで人間がそこにいてこその「神」なのではないか。

人生タクシー(2015/イラン/ジャファル・パナヒ)

f:id:menmoku:20170815070829j:plain

 

キアロスタミの『10話』を思い出さずにはいられないことになるが、『10話』は言わば奇跡的・天才的に映画になさしめられた映画であって、この映画はそんな奇跡や天才を再現できるなどと不遜で怠惰な発想ははじめからしていない。むしろこれはこれで、何もないところから映画を映画になさしめるべくの戦略が張り巡らされた映画であって、そのぶん謙虚な映画でさえあるのだと言える。

 

映画を映画になさしめるべく、映画の主要な被写体でもある監督は、まず備え付けのキャメラにあらゆる角度へのキャメラワークの行使の自由をあたえる。キャメラワークの行使とはそのまま映画の作為の表徴でこそあり、つまりそれを行使することはこの映画が結局ドキュメンタルなフィクションでしかないことの表明ともなってしまうのだが、それを監督は怖れない。むしろ観客にそれをあけすけにすることで、観客が自らこの嘘の共犯者になるように仕向けるのだと言ってもいい。

ときに固定され、またときに恣意的にキャメラワークを行使させられる画面は、画面に映るものと映らないものとのせめぎあいの中でその緊張感を内部にみなぎらせる。たんに固定されたキャメラを設えるだけの無芸な作品に過ぎなかったのなら、それはたんなる似非ドキュメンタリーにしかならなかった。

 

たとえばある人物が画面の限られた枠組の中に映ることや映らないこと(あるいはその曖昧な狭間にあること)が緊張感をはらみうるのも、それは映画にキャメラワークの自由があたえられているからなのではないか。たんに固定されたキャメラが設えられているだけなら、それは「客観的な記録」という内実を欠いた表出にしかならないが、キャメラワークの自由があたえられていれば、それは意識的な嘘の細部としてサスペンス的な可能性を生きることが出来るようになる。

 

ラストシーンは、キアロスタミ的だったかも知れない。映画から世界に、世界から映画に、現実は架橋される。画面を暗転させる如何にもメッセージ色のつよい“事件”より、むしろなんでもないような夕暮れの街並の断片の光景こそ世界であり映画であるという、現実。