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映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

最近見た映画(その05)

映画覚書

◎『幸福は日々の中に。』(2016/日本/茂木綾子、ヴェルナー・ペンツェル)

貌の豊かさ。と言って殊更その心理的な表情に執着する映画ではむしろない。ただ皆が皆、活きている。そのことが、その貌の豊かさの印象として帰結する。アニミズム的な、うごきまわることの生命の印象。

「ノーマル」でなく「スペシャル」であるというその言及のありようが、なるほどその通りに、画面に登場する貌、貌、貌によってたしかにそこに生きられている。どうしてそのように見えてきてしまうのかは俄かには判らない。判らないが、現にその貌達を見れば、彼らがそこに自分自身としてユニークに活きているのは分かる。

皆が皆して叩き出す騒然たる音楽の正体不明の「圧」が映画を支えていることは間違いない。

 

〇『トリプルX:再起動』(2017/アメリカ/D・J・カルーソ)

アクションにちゃんと「展開」がある。空間を活かし、また造り出しさえする画面の、動線の確たる構成が映画をちゃんと「活劇」にする。

 

〇『肉弾鬼中隊』(1934/アメリカ/ジョン・フォード

さまよえる偵察隊、全滅す。一言で言えばそんな筋書でしかない物語なのにもかかわらず、それでも終幕、兵士達の墓標となるサーベルの刃を誇らしいように白く輝かさせずにはいられないジョン・フォード。その呆気羅漢ともした無暗な肯定へのベクトルこそ、本来の「映画」の姿なんじゃないかとすら思える。

決定的な不足は、アラブ兵の「顔」だろう。

なぜこの映画が欝展開にもかかわらず基調的な明澄を失わないのか。それは、それぞれの人物がそれぞれのかけがえのない人生を生きていることを、脚本と演出が着実に描写するからじゃないのか。

 

◎『ブラインド・マッサージ』(2014/中国=フランス/ロウ・イエ

呼吸や脈拍を必然的に印象づける接写、あるいは盲人同士が同じ空間につかの間共存しているそのことをさえ当たり前にひとつに捉えようともしない画面は、一見映画を映画でなくするようでいて、しかしそのことによってしか見いだせない生理的な交感を刻むことで、やはり映画になる。

常に開かれ続けていた青年の瞼が閉じられる時、その目の前には、見えない顔がしかしはっきりと見えている(微笑)。けっして齟齬ならず。

盲人を殊更「盲人」として描く視点は、現今の中国文化圏にそれでも息づく封建的性質の自覚的発露なのじゃないか。

 

〇『ホワイト・バレット』(2016/香港=中国/ジョニー・トー

クライマックスの為の映画かと。その為に作劇が組織されているようで、「現実的」という観点で言えば無理感も。キャラクターにあたえられているのは作劇の中の「役割」だけで、「人物」としての見えない幅を感じられない。

 

△『ネクター』(2014/フランス/ルシール・アザリロヴィック)

ふと昔年の前衛映画をさえ想起させられるような、フィルムで撮影されたのだろう短編映画。なれど音声は画面と当たり前に同期し、「現実感」に当たり前に寄与、帰依するばかりで、映画そのものとしての「素材」を露わにはしないという意味で、当たり前の劇映画でしかなく。

乳房が乳房たるような柔いもみしだきかたになんとなく女性らしさを感ず。

最近見た映画(その04)

映画覚書

*「ロマンポルノ・リブート」5本*

 

ジムノペディに乱れる』(2016/日本/行定勲

なんでジムノペディなのか。なんでこの男なのか。なんでだいたいロマンポルノなのか。わからない。相変わらず審美的に耽美的なソフトフォーカス。ロマンポルノとして映画として、必要なのは化粧(粉飾)でなく素肌(露呈)ではないのか。そこに生きていることのかけがえのなさ。

 

『風に濡れた女』(2016/日本/塩田明彦

艶がない。運動会よろしく人間同士が裸体でくんずほぐれつし合っても、それで映画が有体な現実感を突き抜けて映画になってくれるわけでもない。ちょっとした目線や仕草が可笑しさを生むのは判るし、実際それによる喜劇性をこそこころざしていたのならこれはこれでいいのかも知れないが、本来「濡場」である筈のくんずほぐれつに艶がないのはやはり欠点であるまいか。

空っ風に素肌をさらすような実存の震えなくしてそんな「艶」など生まれようもなく、裸体はたんに裸体としてそこに提示されるだけになってしまう。

 

『牝猫たち』(2016/日本/白石和彌

女達と男達のからみあいが艶めく。これこそ、だと信じる。女達の素肌が人生の影、物語の艶を帯びて、巷間にのたうつことの切なさをにじませる。一見すればだらしなくみだれているようでも、それでも不意に示される一片の情理の発露が、実存する人間としての艶となってその素顔の肌理となる。

ふと風が吹く。なぜかしらその場面に風が吹き、木の葉を揺らすことの映画的なざわめきが、確かに相応に映画を映画にする。物語が、人生が映画の中で人物の実存として生きられているからこそ、そんな瞬間もまた可能になる。

 

『アンチポルノ』(2016/日本/園子温

画面の中で演じられているものが、すぐさま舞台劇的な閉塞感に翻訳されてしまう。劇中劇的なメタフィクショナルな構造で自覚を見せ掛けてもアリバイにしか感じられない。

映画が風俗として巷間に居場所を喪った時代の、如何にもそれらしい密室性(密室的性風俗)。出来のいいフィギュアみたいな冨手麻妙の肢体(それはそれでいいんだけど)。

 

『ホワイトリリー』(2016/日本/中田秀夫

ドラマが上滑りするように見える。恐らくは、同性愛的な性戯を演じる女優と女優が映画の中で拮抗する人物同士として捉えられていないから。象徴的なのは準ラストシーンで、落涙して「先生」の元を去る飛鳥凛のクローズアップに対して、「先生」である山口香緒里への切り返しのクローズアップがないこと。このふたりのそれぞれをそれぞれに描くことをしなければ、ドラマは(文字通りに)ひとりよがりな女の独白に似たものにしかならない。人と人とがからみあうのでなければ、なんの「濡場」か。

 

***

 

いわゆる単なるポルノグラフィならぬ「ロマンポルノ」に必要なのは、「触れ合うこと」をこそ描くことなのじゃないか。役者(とくに女優)が素肌をさらすことの意味がかわってくれば、それをめぐるところの画面の中での肌理自体も相関的にかわってくるのだろうが、それでもエロスがエロス足り得るのは、それが「触れ合うこと」の表象であるからなのじゃないか。それが、素肌が最高の衣装となるように裸を撮る、ということになるのではないか。

たんに服を脱げば裸になるのではない、ということ。服を脱ぐことが何を脱ぐことになるのか、ということかも知れない。

SHARING(2014/日本)篠崎誠

邦画

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山田キヌヲという主演女優の寝ているのか覚めているのかわからないような表情が第一印象。寝ているのか覚めているのかわからないのは、しかし映画自体の筋書がそうさせているのやも知れず。寝ては覚め、覚めては寝て、どこまでが夢だか現だかも判然とせぬなかで映画の筋書はつづられる。だいたい映画なんてそんなもの(夢現半ばのもの)だろう、とは確かに言えるが、映画がそんなものでありうるのは、映画が現実に似て非なる(似非)現実であるからで、その似て非なることのバランスが現実との見え難い相関を失すれば、映画はたんなる絵空事と認識されることになる。

 

悪夢を見ることを繰り返すこの映画は、この映画自体が悪夢であることの示唆を含んで終始する。寝ては覚め、覚めては寝て、しまいには半ば夢を見る為に寝るかのように寝ることさえする主人公は、いったい映画の中で何をしたのかと言えば何もしていない。映画の舞台はほとんどが大学の構内に限られ、その中で同じ様な追走場面が繰り返し演じられ、若者たちは直立し孤立した影をたたえてうろつきまわり、たたずむ。

 

タイトル″SHARING″の意味は一般に「共有」ということになるのだろうが、またそれは言い換えれば「分有」でもある。となれば、それは同じものが分かたれることの意味をもはらみうることになる。であるからか、この映画には同じものが分かたれる「分身」のイメージも見出されることになる。「分身」のイメージは無論それそのままの“分身”や、あるいは双子の人物として登場しもするが、それを言うなら、だいたい同じ様な場面が反復して展開されること自体、時間的な「分身」のバリエーションとも言えるし、それは更には、可能世界意味論的な可能態と現実態のバリエーションとも言える。

 

起こったこと(起こらなかったこと)と起こりえること。すべての可能性を現実的に含蓄し得るのは、私らの日常の生活の中に於いてはただ「夢」だけかも知れず、だからこの映画がそんな夢のモチーフを反復的に展開するのは、その意味で正しい。しかし、そのためにこの映画は、切迫した現実からは遠ざかることしかできなくなったとも言える。「切迫した現実」という認識の型自体が虚構の紋切型でしかないのかも知れぬが、「夢」の不安におののくことしか描かないこの映画は、「夢」の内部に自足したまま終わる。

 

この映画には111分版と99分版があるとのことだが、一部要素を削ることでそれでも双方の映画が成立してしまうという事実自体が、この映画が決定的な「物語」の枠組を有していないことを証していやしないか。双方が映画として独立して成立してしまうことは、映画の示す帰結それ自体の希薄を証だてているのではないか。たとえば映画の最後のワンシーンが決定的な意味をもつのは、映画=物語の全体がそのワンシーンの決定性を裏打してこそであって、それを欠いた最後のワンシーンは、それがどれだけ衝撃的でも、所詮そのシーンだけの衝撃でしかない。現実はそんなものではない、というつまらない現実的な一言に、その衝撃は拮抗できない。

 

見たそのままの映画的な印象として感じるのは、被写体がキャメラとの緊張関係を生きていないように見えるゆるさ、だろうか。それは役者が口にするセリフの抑揚の深浅にまで波及するものだと思える。画面の中で被写体とキャメラの緊張関係が生きられなければ、たんに話している人物をただ撮影しているだけに見えてしまう。とくにキャメラ目線の女性陣の執拗さに比べて男性陣の希薄さが悪い意味で際立つ。

太陽の王子ホルスの大冒険(1968/日本)高畑勲

邦画

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画面を彩るアイデア、その豊かさ。たとえば冒頭のホルスと狼達との戦闘シーンからして、あの手斧の「縄」。そのアイデアの出色なこと。単なる剣でも斧でもなく、自在なリーチを展開できる「縄」の結びつけられた手斧というアイデアあらばこそ、そのシーンからして立ち回りのアクションは画面いっぱいに繰り広げられることになる。文字通りに「立ち回り」が「繰り広げられる」。つまり画面の中で回る運動と空間の広がりが十全に活かされる。この手斧の「縄」のアイデアは、その後のグルンワルドとの最初の対決のシーンでも、やはり文字通り「運命の手綱」として演出に活かされる。悪の親玉に「運命の手綱」を握られてしまったことが判然とする瞬間のちょっとした戦慄は、そのまま悪の親玉たるグルンワルドのキャラクター性に投影されて、その印象を見る者のうちに暗に刻みつける。

 

作劇的には、単純に言えば善と悪の対決で、社会主義的な理念の投影を以て全体のドラマが構成されているのも確かだろうが、それがそれでもドラマティックに観る者に迫り得るのは、それが何より個の実存の問題として描き出されるからにある。いわばそれは個の実存の内に展開される仮面劇であり、たとえば少女ヒルダの葛藤する心の内はリスと梟の二者に託されて演じられることになる。よくある心の内の天使と悪魔の対立のような観念の図式化のようだが、それが心の内の形象化にとどまらず、実際にヒルダの周囲につかずはなれずするキャラクターとして描き出されることで、それらはヒルダを巡る演出の中に組み込まれ、ヒルダの葛藤する心の内をアクションとして表現することが出来るようになる。

 

つねに行動しつづけるホルスと、つねに苦悩しつづけるヒルダとは、それじたい一個の実存の内的な葛藤の形象化ではあるかも知れない。しかしそれが単なる形象化にとどまらない内実を獲得し得たのは、とくに少女ヒルダの具体的な演出的造形によるところが大きい。たとえば、まずあのわずかな描線のゆるみやゆがみで表現されるその表情の機微。微妙な按配にゆるみ、ゆがむところの眉間や口元は、その苦悩の繊細さの形容し難い機微をあらわしてあまりある。また決意したときにヘアバンドを決然と刃で断ち切る仕草や、なすがままになぶり者にされるときのからだのふらつきも、その心の内のありようが見える動きとしてそこに如実に示される。見る者はそんなヒルダの一挙手一投足にこそ魅せられることで、そのドラマを信じることにもなる。

 

社会主義的な理念の投影を受ける作劇は、その理念からすればさまざまな矛盾を含蓄することにはなる。協同の尊厳を描こうとしながら、それが作劇としてはホルスやヒルダやグルンワルドという象徴的な存在に託すことでしか描かれ得ず、協同の理念がそのあり得べきかたちのままに描かれることはない。それはむしろ、理念が現実化するときに被る普遍的な物語化のありようをこそ体現してしまっている。何某主義の理念などより、もっと根底的に人間のイマジネーションに訴求するのは、結局象徴的な存在が象徴的な対立を演じるような神話的物語だということ。だからこそ、現実には社会主義理念は無惨に滅び去ったわけで、だからこそ、作家としての高畑勲はそののちに、行動するホルスではなく苦悩するヒルダをしか描くことが出来なくなったのかも知れず。(宮崎駿は、むしろその少年と少女の結びつきをこそ信じようとすることで、描くべきものを模索し得た。)

 

それでもホルスの様な象徴が信じられていたその朗らかさは、たとえば船出するホルスの姿にきらめく太陽の光が一瞬重なるような何気なくとも素晴らしく勢いに充ちた描写に端的に形象化されている。その一瞬だけで映画自体を信じたくなるような一瞬。

最近見た映画(その03)

映画覚書

△『島々清しゃ』(2016/日本/新藤風

子供達や素人の老人が主要なキャストで登場するが、そうすると脚本の脆弱さがもろに出てしまう。絞りどころ、落としどころが曖昧なままの構成で印象も曖昧に終わる。人物の語るセリフが地に足着かない(体に具わっていない)ように響いて腑に落ちない。
「プロフィール(横顔)」を切りとる様な随所の女優に向けられたクローズアップは、それ自体としては悪くないように見える。しかしそのイメージが全体の御話と通い合わないので活かされない。それこそ「ちんだみ(調弦)」が良くない。
ガタイのよい安藤サクラが纏うと存在感が出る夏仕様のシンプルな服飾。

 

〇『雨にゆれる女』(2016/日本/半野喜弘

「雨にゆれる」とくれば、それこそ「雨」が印象的に画面に刻印されてくるのかと思いきや、それほどでもない。薄暗い廃屋じみた家屋に鈍く差し込む白昼の光も、画面の艶を構成するとまでは言い難い。風も窓外で吹いていたようには思うが、吹いていただけだったようにも思う。ただそれでも、青木崇高大野いとのふたりは確かに艶ぽく見え(敢えて言えばふたりとも肉感的なのがよろしく、またものを食べるという仕草が何気に大事にされているのもよろしく)、故にそのふたりの物語にも見入らせるものはあった。大野いとの叫びに真情を感じられるだけの内実はあった。

 

〇『ザ・コンサルタント』(2016/アメリカ/ギャビン・オコナー)

いわゆる「高機能自閉症」という障害を負うものらしい主人公の物語になるが、その障害がユニークな個性として具体的な作劇の細部の中に活かされる。物事の細部に几帳面すぎるほど几帳面なその固執ぶりは映画的な演出と相性がよいのかも知れず、映画の細部の描写にタイトな印象をもたらすことになる。

敵方の黒幕との決着のつけかた、その殺害の躊躇のなさは、アメリカ的なモラルの端的な発露なのかも知れず。そのモラルとは社会的公益性うんぬんよりも家族の絆こそ第一という(家族を自分の為に殺す様な男にはなんの躊躇もなく引導を渡すという)モラルであり、またそれが障害を負う者の個性の中でよくも悪しくも純化されたものとして結晶しているという描写になる。

いわゆる「高機能自閉症」という障害の個性が、プロフェッショナルな規範意識に近似する。似て非なる部分があるとせば、それはセンチメンタルな独善性があるかないかかも知れず。よくも悪しくも、子供のままに大人を生きている主人公。

 

△『サバイバルファミリー』(2016/日本/矢口史靖

ことごとくおとなしく想定内に収まる展開。震災の記憶を前提にした設定ではあろうが、根本的に問題として向き合う意識のあるわけでもなく、せいぜいが長いバカンス旅行程度の含蓄しかもちえない非日常。

災厄の原因がなんとなく示唆される。映画としては示唆されなくても構わなかっただろうが、示唆されればされるで、決して全然あり得ない事象でもないということが判る。日常がいかに脆弱かという簡単な教示にはなる。

 

△『皆さま、ごきげんよう』(2015/フランス=ジョージア/オタール・イオセリアーニ

あり得ないような強風が画面を席巻しても、そこに映画の神はなんらの恩寵ももたらさない。それよりも、たとえば銃撃されて階段に倒れた男の背広のすそが全くの偶然であろう微風によってわずかにはためいて見えたりする方が、まだしも映画の神の恩寵を感じないではない。いくら映画的な演出を意図しようとも、それが本当に「映画」になるかどうかは意図の範疇を超えている。残酷なことにつまらない。

つまらないと言えば、たとえば警察署長の役者の風貌のつまらなさ。全然つまらない。

妙な瞬間の妙な按配なジャンプカットがいくつか見られる。

 

〇『あなたを待っています』(2016/日本/いまおかしんじ

「あなたを待っています」のカードをさげた山本ロザが、登場以降、聾唖者のようにほぼ喋らない。喋らないである決まった身振り手振りだけで主人公や他の人間とやりとりする。コミュニケーションにならないようでなんとかなっているらしいそのやりとりにそれなりに見ているこちらもなれてきた終盤、山本ロザはやはり唐突に肉声を発する。

そこまでほとんど「ひとりサイレント」だった人物が、映画内で肉声を発するその瞬間だけは、「映画的」と言いたくなるような戦慄をかすかに覚えた。いわば、たんに役者が言葉を語り始めるだけのことが、映画(史)の中でいかに決定的なことだったか。