映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

最近見た映画(その09)

△『シアター・プノンペン』(2014/カンボジア/クォーリーカー・ソト)

ポル・ポト政権下に弾圧されて撮影中断を余儀なくされたという映画(フィルム)を巡って30年後の現在に於いて演じられる物語。

映画自体は稚拙かも知れないが、それでも最後のタイトルロールでカンボジア映画ありし時代の亡き映画人達の肖像を見せられると、何も知りもしない日本人の自分に於いてさえ、文字通りに“失われた”歴史への慟哭の念を感じずにはおれない。廃墟同然のアーカイブに埋もれたフィルムの山はそのまま虐殺された無辜の人民の白骨の山のイメージに重なる。この地球上の映画史120年の内に、そのようにはっきり“失われた”歴史が存在するという事実。

 

〇『コロンブス 永遠の海』(2007/ポルトガル=フランス/マノエル・ド・オリヴェイラ

オリヴェイラの映画の画面は、キャメラの枠組が四角形であることを意識させるように撮られているかに見える。フィックスで撮ることが前提の構図。

冒頭の場面の銅像や屋根に群がる無数の鳩の存在は、どうでもいいようでいてしかしそのじつ画面に欠くべからざる蠢動の感覚をもたらす。

着陸した飛行機が一旦画面外に出て、また画面内に戻ってくる“演出”。着陸した飛行機をパンして捉え続けるならそれはたんなる「説明」になるが、敢えて画面の内外を意識させるその“演出”によって「描写」になる。

最後に来て、ここでも四角形の「窓」が画面内のフレームとして機能する。しかしなぜ「窓」なのか。

 

〇『ナイスガイズ!』(2016/アメリカ/シェーン・ブラック

目前で息絶えたポルノ女優の亡骸に自分の着ていたパジャマを脱いでかけてやる少年。そんな細かな演出には信頼できるセンスを感じなくもない。が、ともかくせわしない。ドタバタし続ける展開にむしろ浮薄を感ずる。はったりを食らわすことに演出意図が先走っていて、内実のドラマが追いつかない。

 

〇『お嬢さん』(2016/韓国/パク・チャヌク

珍奇な日本風俗描写やトリッキー話法が面白いと言えば面白いが、それはいわばワイドショー的面白さで、画面はその説明図解に終始する。映画の画面は本来こういうものではないと感ずる。なんとなれば全部あからさまに見せたっていい。しかし見せた「そのもの」が一体全体なんだったのか、と感じさせてしまうようなものが本来の映画の画面ではないか。

 

〇『恋人たち』(2015/日本/橋口亮輔

この演出家の描き出す人間像にはいつも非人間じみた嫌らしさを覚えなくもない。しかしその非人間じみた嫌らしさが切実な体温の低さで生きられるので、それもまたやはりある種の「人間らしさ」なのだと感じさせられる。非人間じみた「人間らしさ」。

映画を縁取るかに見える水路のイメージは、恐らくその視座の「低さ」にこそ由縁がある。東京という都市の本来の基底としての水路は、最も低い位置から東京を下支えする場所。水路という最も低い位置から見上げられることで、東京の狭隘な空の薄い水色がそれでもその水面の反射とイメージとして照応し合うかに見える。映画の帰結として、それはそれで何も悪くない。

某独白場面での唐突なズーミングは、決して「説明」的でも、またしかし「描写」的でもない。それがなければこの映画がこの映画でないと言うようなズーミングとしてそこにある。

タイトルの「恋人たち」とは「乞う人たち」のことだろう。不在の相手、あるいは相手の不在へ向けられた乞い願う心模様の微細なドラマ。

 

◎『GF*BF』(2012/台湾/ヤン・ヤーチェ)

年代記的青春グラフィティとしては台湾のその時代ごとの社会背景がかかわってくるに違いないが、それでなくとも、同性愛者を交えた三角関係の物語として、随所の演出が繊細で、心情の機微にきちんと絡み合うドラマとして成立しているように見える。

人物達の細やかなセリフや仕草がその人物その人物をきちんと描き出す。描き出された人物達が、時間を隔てて反復しまた交換するセリフや仕草のあれこれが、隔てられた時間そのものや相互関係の抜き差しのならない「間柄(あいだがら)」を切実に反映する。そんなドラマの成立を見届けられるからこそ、最初と最後で登場する双子の姉妹の存在が、三人の長年にわたる関係の掛け替えのない“賜物”としてちゃんと見えてくる。

冬冬の夏休み(1984/台湾)ホウ・シャオシェン

 

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田舎の家屋。田舎の家屋の窓や出入口がことごとく開け放たれてあるのは、これが夏の映画だからなのではなく、むしろ昼日中の風と光の映画だからこそなのではあるまいか。それは同じことのようでいて、しかし夜の場面がほとんど描かれないことに於いて異なっている。唯一の夜の場面では、風も光も息をひそめたように画面から姿を消す。木々や草花とともにそこに実存する者の肌理をざわつかせるような風と光の生命の感覚を、演出家は開け放たれてある窓や出入口を通して存分に画面に活かす。

 列車。列車はその内外の空間をやはりその窓や出入口を通して可視化する装置として、同時にその伸長する形相と運動に於いて自律的に進行する時間を可視化する装置として、それこそ映画的に機能する。列車を介した空間内での出入、あるいは時間差による錯綜を、演出家はしっかり映画の契機として作劇に活かす。

 

少年がはじめて田舎の駅前に足を踏み出す時、画面にまずあらわれるのはその足先ではなく、その操縦するラジコンカーである。何気ないようで、これがつまり「説明」ではなく「描写」なのではないか。その操縦するラジコンカーが、何より少年が都会の子供であることを示し、尚且つそんな立場として少年がそこで抱いている心理的な様相をも示す。そのラジコンカーがのちに少年と田舎の子供達とかかわりあう為の触媒として機能することを見れば、演出家がそのラジコンカーのショットをさりげなく入れたことは、決して何気ないことだったわけではないことも判然とする。

 祖父は、映画上ではほとんどセリフらしいセリフを口にしない。ほとんどの場面に於いて厳めしい表情と姿勢で子供達を威圧や恫喝するのみで、教育的存在者としてふるまう。身振り手振り、あるいは表情の素振りでキャラクターを成立させることは、この祖父の祖父たるゆえんをむしろ映画上で際立たせる。少年と祖父がそれでも親しく言葉を交わしているらしい場面に於いてさえ、聞こえてきてもいいセリフを抑圧することに於いては、その祖父の寡黙な動態ぶりもまた演出であることが判然とする。

 

この映画に頻出する、眠る、寝る、つまりは「横たわる」人物達のイメージは、恐らくそのまま「死」のイメージにつながっている。それがつながっていると言えるのは、冒頭のベッドに横たわる母親から、行方不明になる少年、また強盗に遭う男達、あるいは流産する少女のような、「危機」に瀕する人物達の一連の「横たわる」姿が画面に登場することからも判然とする(肛門の激痛に苦悶する従兄の姿もご愛嬌のバリエーションか)。だからこそ、否応なく劇中唯一の夜の闇とともに眠りに巻きこまれ、そして朝のぼんやりとしたあかるみと共に目覚める子供達の姿も描かれることになる。それはやんわりと描かれる死と再生の謂いなのだということが、イメージをさりげなくしかし確実に変奏しつつ反復する演出に於いてこそ、よく判然とする。

 

ホウ・シャオシェンは確固たる「演出家」だということ。

最近見た映画(その08)

〇『キングコング 髑髏島の巨神』(2016/アメリカ/ジョーダン=ボート・ロバーツ)

細かいことを論えば、シーン毎の接続が粗雑。あるいはシーン毎を貫いていくはずのプロットに牽引力がないので、全体として展開が弛緩する。それをキングコングやドヤ顔俳優のどアップで無にしようとする乱暴さはやはり粗雑にしか見えず。しかしそんな粗雑はこの手の映画につきものの粗雑でもあるように思われ、やはり細かいことでしかないのかも知れず。

 

△『マンチェスター・バイ・ザ・シー』(2016/アメリカ/ケネス・ロナーガン

敢えて現実的なSEを排して実質無音のような抑制的な演出で物語を始める冒頭は悪くないように見える。けっして深くはないが一面に雪の積もったしがない冬の港町の凍てついた風情は映画の物語の基調に即してどことなく慕わしい。

主人公の日常、あるいは人物を素朴にカッティングして見せていく序盤はやはり悪くないが、中盤以降はそれがたんに説明的な平坦なカッティングにしか見えなくなってくる。またところによっては無駄に思える奇妙なカットがある。なんのためにそのカットを入れるのかわからないが、しかし説明的でしかない(つまり蛇足的)カット。

 

〇『残されし大地』(2017/ベルギー/ジル・ローラン)

立入禁止区域のゴーストタウンと化した街並を捉えるトラヴェリングショットの奇妙。廃墟の静穏な虚無がその持続的な時間の中に映し出される。あるいはやはり無人となった草木の中に点在する家の固定ショット。家の窓に明かりはなく、青白い月のあかりだけが無数の鈴虫の音を受けてあたり一面を穏やかに照らし出す。

もしかすれば、これらショットをきりとったこの映画の監督は、その黙示録的とも言える人の姿の排された光景に密かに魅せられてしまったのではないか。その事実の非人間性を告発するよりもまず、そこにあるその光景そのものに否応なく魅せられてしまうことは、ヒューマニズム以前の素朴に映画的な感受性の発露のようには思える。そしてそれは図らずもヒューマニズム以後の光景ともなる。

 

◎『けんかえれじい』(1966/日本/鈴木清順

一見物語的な脈絡を脱臼させるような断続は、決して「美学」的なものではない。映像演出家の生理ではないか。生理であるからこそ、それは不可避的で、映画の中で必然的な肌理として時間の持続の中に機能する。高橋英樹の、よい意味で「心理」の欠落した身体と表情が、天然の役者としての実存を生きる。一度自身で発した声をも一度自身の腹に収めようとする(?)そんな奇妙な仕草さえ映画の動態の中で切実さを帯びる。

障子の表を滑る指先は、そりゃ障子を破らねばならない。破らねばならない。破るからこそ遣る瀬無い。「破る」ことにこそ人物のドラマが凝縮されて、見事物語が映画に(映画が物語に)なり遂せる。

北一輝との遭遇が青年を東京に奔らせる。「北一輝」というなんでもない歴史上の固有名さえが映画的な艶を帯びて響くように、そこに踊る。映画らしい映画とはそういうものかと。

 

〇『はじまりへの旅』(2016/アメリカ/マット・ロス)

父と子の物語。子はここでは“子供達”であり、つまり複数。複数でそして男女が三人ずつで均整された配列を組む。母親の命名により人名を授けられたバスの座席、その配列を序列として目に見える事象とする。父はその運転者として、ミラーを通して子供達とコミュニケーションする。ミラーを通して画面上切り返される父と子供達。その何気ない画面の交換が終盤、形式的な反復を介して、不在によって在を強く示すショットとして映し出される。父が髭をそれば、息子は髪をそる。御互いに御互いの欠落をなであう仕草もまたミラーを通して画面上切り返される。

子供達は確かに“子供達”だが決して匿名的な複数性には埋没せず、それぞれがそれぞれであることを体現する楽器と歌声を奏で合うクライマックスの解放感は、ある家族の、「この親にしてこの子あり」という、幸福な物語的予定調和を説得的に描き出して已む。そういう映画。画面の交換と演出の段取がドラマを生み、物語を成立させる、ちゃんとした「映画」。

 

〇『フレンチ・ラン』(2016/イギリス=フランス=アメリカ/ジェームズ・ワトキンス)

ほぼ遺漏ない。定型な枠組の定型な物語がアクション活劇として卒なく展開される。

クライマックスの国立銀行のシーンは、シナリオ上で群衆をモチーフとしてもちいつつ演出的には密室的な場面設定に逃避したようには見えるが、仮面などの細部がアイデアとしてちゃんと活かされて展開として機能してもいる。

三カ国にわたる多国籍映画。映画の国籍は映画自体の展開や画面の肌理にもやはりどことなく反映されるものだとは感じる。

最近見た映画(その07)

△『ゆずの葉ゆれて』(2016/日本/神園浩司)

児童文学の映画化らしい。見るべきものがない。「ゆずの葉ゆれて」という題名なのに、肝心のゆずの葉を風にゆらすことすらしない。ドローン撮影によるものだろう空撮があるが安易に用いたものに見える。

 

〇『夜は短し歩けよ乙女』(2016/日本/湯浅政明

平面的なパースの歪な絵柄で描くには、青年の妄想を基にした御話は格好の題材ではあるのかも知れず。しかしこれならば結局は、分節化された言語的な演出と作劇の意図が大きな権能をふるうことになって、その結果、見る者はモノローグの饒舌を愉しむことしか出来なくなるように思える。肉体即ち実存、あるいはその痕跡としての作画のリアリズムが介在しない以上、それはどこまでもモノローグの交錯でしかなく、ダイアローグにならない。

 

〇『カフェ・ソサエティ』(2016/アメリカ/ウディ・アレン

ふと停電して、束の間蝋燭の火で照らされた女優の貌は、まるでヨーロッパ映画のそれ(さすが?)。停電という劇中のアクシデントは、蝋燭の光でその貌を撮るための演出だったのだろう。

ありていに言えばどこかで見たことのある、ありがちな御話の映画にどう決着をつけるのかと思えば、主役の男女二人の遠い距離を介した、しかし映画の中ではカットバックで同期する表情の交錯で、呆気なくしかしきっちり幕を下して見せた。それできっちり幕を下して見せられる表情が、そこにしっかり写し撮られていた。

 

〇『ムーンライト』(2016/アメリカ/バリー・ジェンキンス

肩越し、クローズアップ等の人物の主観的なキャメラ視点が頻出。それによる主観への同調にあまり狭隘な閉塞感を覚えないのは、何より人物が積極的な動態的な演技をほとんど見せないからではないか。フィックスで捉えることの少ないキャメラはこの映画では主題的に必然だったのかも知れず。そのキャメラワークの流動感がこの映画の触感的柔和に寄与するところは大きい。

センシティブな黒人男性というイメージは、あまりハリウッドのメジャーな映画には見受けられないものではないか。主人公の黒人男性の成年期を一見してマッチョな俳優が演じているのは、作劇的な要請とともに、そんな黒人男性を巡るイメージの社会的齟齬の感覚を図象的に表現する為でもあったかも知れない。

 

〇『ラビング ~愛という名前のふたり〜』(2016/アメリカ/ジェフ・ニコルズ

ジョエル・エドガートン演じるリチャードは飽くまでも普通の男。決して大胆でも勇敢でもないが、しかし家庭を守ることに懸けては臆病でも卑屈でもない。仕事には寡黙に勤勉に取り組む。その日常の感触を、仕事ぶりの決まったショットの反復や、子供達の嬌声のオフサウンドなどで演出することをきっちりやる映画。

最高裁への上告の報告に弁護士達が家に来る場面。最初に雪景色の中を外に薪を取りに家を出るリチャードの姿から始めて、家に戻るとそこに弁護士達が居ることがはじめて判る。何気ないが、これもまた日々の生活こそを第一義にリチャードが動いていることの段取的演出になる。そんな描写あってこそ、「俺は妻を愛している」という素朴な真情の吐露が、単純なセリフとして以上に、のちの画面展開の中で響くことにもなる。(だからこそそこではセリフを吐露するリチャードの横顔だけでその場面を終わらせるべきだったかも知れない。)

 

◎『ブロンド少女は過激に美しく』(2009/ポルトガル=フランス=スペイン/マノエル・ド・オリヴェイラ

フィックスで撮る、ということを殊更に意識させられる画面。「ブロンド少女」の登場する窓辺のきりとられかたの律義なまでの四角形ぶり。しかしそのようにきりとられることで「ブロンド少女」は文字通りに“飾り窓の女”ででもあるかのようにそこに印象づけられることになる。そこでは何より「窓」なのだ。視界を四角形にきりとる窓という縁取が、まるで少女と青年の間を映画的に媒介するかのような機能を果たす。窓があることで、二人は恋に落ちたと言ってもいい。画面の中に画面を設置したような窓という縁取は、やはり「映画」という自覚を喚起させずにはおかない。

一瞬で変換する夜と昼の街並の光景のショットなど、本来なら一見して説明的に見える筈の画面の提示がむしろ描写的な呆気羅漢の境地をにじませる。不思議。

リカルド・トレパはその愛嬌ある表情がどこまでも憎めない。ブロンド少女を見初めた瞬間の「見初めた」表情の見事な愛くるしさ。その表情自体が絶妙なユーモアと化す。

原作由来なのだろう御話の簡潔は、しかし原作由来から色気も出さず簡潔に徹する限り、やはり呆気羅漢の境地をにじませる。

最近見た映画(その06)

◎『おとぎ話みたい』(2013/日本/山戸結希)

一本の映画自体がひとつのからだなのだとしたら、この映画はそのからだの爪先の先までめいっぱいにとぎ澄まして踊りを踊りつらぬいているようなもの、かも知れず。ミュージカル映画ミュージカル映画足り得ること、即ち人が不意に踊り出す瞬間が正に踊り出す瞬間足り得ていることが映画の奇跡なのだとすれば、この映画はそんな奇跡にこそ恵まれている。本来なら成立し得ない瞬間が問答無用に映画の中の現実として成立してしまうこと。

 

〇『5つ数えれば君の夢』(2014/日本/山戸結希)

通奏低音の如くに静かに反復され続けるリズムとメロディがぜひとも必要なのは、この映画自体がその中で小刻みに踊り続けることを欲しているからなのだと思える。少女達の錯綜するモノローグはやはりモノローグでしかないとしても、映画自体がひとつのからだとして孤独な独壇場を演じ通す映画なのだと思えばそれも欠点とはならず。その中で人物が複数化し物語も複線化することで多層的に曲想を重奏する一篇の譜面のように映画は進む。

しかしここには“女の子”しかいない。男達は皆、“女の子”のモノローグの鏡でしかない。人物達の肉体そのもの=実存は複数化されていない。互いに触れ合うことの当たり前のエロスが形象化されていない。

 

〇『マリアンヌ』(2016/アメリカ/ロバート・ゼメキス

たとえば、砂塵の中の車、その内外の隔絶と透過の描写。あるいは、墜落する爆撃機、その緩慢だが確実な接近の軌跡の描写、など。

CGを映像演出の中で効果的に用いることが出来るのは、それを用いることによる空間表現の可能と不可能をよくわきまえているからなのではないか。空間があり事物がその中で持続的に運動することへの自覚的な視点。イメージではなくあくまでリアルに従属することで、映画の(リアリティならぬ)リアリズムも担保される。

 

〇『息の跡』(2015/日本/小森はるか

この記録映画でほぼただ一人の被写体となる佐藤貞一氏は外語で震災の物語をつづる。かのひとは、それをたんに「話す」ことではなく「語る」ことをこそ欲するがゆえに、そのフォーマットとして外語による記述を選択することになる。「話す」ことは共時的なコミュニケーションだが「語る」ことは通時的なコミュニケーションにつうじ、したがってかのひとは、「話す」ことで消費(忘却)されていく日本語という母語ではなく外語で物語をつづるのであるし、だからそこに歴史学的な記述が盛り込まれていくのも理の当然ということになる。となれば、かのひとは、かつて宮沢賢治が万国共通語としてのエスペラント語を学習したように、外語による記憶の記録にとり組んだことになるのかも知れず。

しかしこの記録映画の賜物たる佐藤貞一氏のキャラクターは、何よりその朗々たるバリトンボイスにこそ結実されているように感じられる。その朗々たるバリトンボイスが、自著を読みあげるところのその声の独特の抑揚は、文章を朗読することの歓びに充ちて感動的に響く。母語という主体ではなく外語という客体がそこにつづられてあることは、「語る」こと(主体)を「聞く」こと(客体)の前に顕在化させることにもなる。運動としての「物語」とは、語ることであると同時に聞くことでもあるということ。

 

△『傷だらけの悪魔』(2017/日本/山岸聖太)

プロットからして、プロットの為のプロットという案配で、キャラクター達の造形もそれに随順する為のものにしかなっていないように見える。例によって例の如くにSNSは人間の陰湿な裏面性発露の温床として描かれるが、それもSNS的なメディア性を前提としたプロットの中で描かれるので、皮相な意味で予定調和な展開しか帰結し得ないように見える。プロットを支える人間観がそのままプロットを限界化してしまう。役者達のセリフもそれ故自分自身のセリフを信じ切れていないもののように聞こえて、むしろイレギュラーなつぶやきなどにこそ余程素朴な吐露が聞こえるような気がする。

皮相な意味でMTV的な映像編集は端的にかったるい。

 

〇『ハードコア』(2015/アメリカ=ロシア/イリヤ・ナイシュラー)

狭隘な空間から一挙に広大な空間へ場面を展開して見せる。主観視点に徹底させているからこその演出的アイデアかと思える。アトラクション的に視点を動転させ場面を展開させ続けることで、主観視点であることの本質的な運動性の滞留(視点が動かなければ場面が動かないこと)を意識させない。神経症的とも言えるが、場面の展開に費やされるアクションのアイデアは豊富。

「寡黙なチャップリン」(こんな自己言及あること自体からしてこの映画は確信犯)は七転八倒しながら単純な規範でとにかく行動し続ける。主観視点という映画のスタイルがそのプロットの基本を規定し、その限界を可能性に変換したという意味で稀有。

念動力のボスキャラは問答無用のそのアクションのキレで説得力を体現し、言葉の通じない異国としてのロシアをゲームステージにすることで余計余分な演出を省略。ぬかりない。

 

〇『バンコクナイツ』(2016/タイ=フランス=ラオス富田克也

モノラルぽく中央にあつめられたという音響の中で、音が、声が、あるいは歌曲が楽曲が、音響のリアリティ志向のパースペクティブから解き放たれて、水面に浮くウタカタのように、画面から奇妙に浮く。画面と音声の拮抗が内部で蠢動し続けることで、映画が息をし続ける。

ロードムービー」というのが流れゆく車窓の映画のことなのだとすれば、この映画も確かに「ロードムービー」ではある。なんとなれば映画の画面という「車窓」の中に、街が、村が、森が、河が広がり、流れゆくのであるから。(その運動の媒体としての、船、バイクタクシー、バス。)たゆたう水面の表情は、端的にそこが楽園の縁であることを示してやまない。そして、髪や布をなびかせる過ゆく風。

3時間という長尺はいわゆる「物語の経済性」なんていう観点からすれば破綻そのものかも知れないが、この映画の場合はその時間の独特の“たわみ”こそがこの映画自体の“質”になっているようにも思われる。(東南アジアの『甘い生活』。)

アジアンスター的風貌の富田克也氏は、被写体としてグッド。