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映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

クリミナル 2人の記憶を持つ男(2015/イギリス=アメリカ)アリエル・ブロメン

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映画の中に世界の細部を切り取る“描写”。

冒頭に展開される銃撃戦。無政府主義者の徒党による襲撃は、第一撃でタクシーの運転手の頭蓋を撃ち抜き、つづいてタクシーのタイヤを撃ち抜きパンクさせる。むろん、移動を封じる為の襲撃の基本的な段取だ。対抗するライアン・レイノルズ演じるところのCIA捜査官は、まずは一撃で敵の一人を撃ち殺し、つづいてタクシーのサイドミラーの角度を変えて敵の様子を確認し、さらに数発の銃撃で牽制しつつ廃屋の物陰に移動する。移動したところで、さらに敵の銃撃に反撃する際に朽ちた壁の格子の隙間から敵を狙撃する。しかしその為に銃弾を使い果たし、残弾がないのを確認して″Fuck!″の一言で天を仰ぐ。

これだけと言えばたったこれだけの場面でも、その画面の断続がことの成行を説得的かつ現実的な理路で展開する。

 

画面の連鎖を断つことを心得るということは、むしろ繋げることを心得るということでもある。たとえば開幕一番の、海辺とそこに立つ一人の男のショットは、終幕に於いて反復される為にこそ挿入されるが、挿入されるそのイメージが物語のキーになることは、その開幕一番の唐突な挿入に於いてこそ有効に機能する。物語の予定調和も、それは映画としての語り口に於いてこそ受け手に受け容れられうるものになるわけで、本来何もなかった筈のそこに受け手にとっての説得的な物語が立ち現れうること自体、立派な映画の幻術なのだと思う。血生臭い殺し合いの物語の始まりと終わりのイメージは、清廉な海辺の平穏な水色。その落差は決して断絶ではなく、むしろイメージの相反的な断続として機能する。それは映画的な“イメージの運動”として物語を縁取ることになる。

 

この映画の何よりの賜物は、つまりはケヴィン・コスナーの、その貌だと言っていい。その貌が、判り易いところの表情芝居と相いれない映画の設定とシナリオにとてもよく即した。もとより大袈裟な表情芝居をしない(出来ない)印象のある役者の貌が、本来匿名的な落伍者でしかなかった筈だろうジェリコという男の語られざる人生と人格を、図らずもよく体現した。この映画のジェリコは、その頭の裏の血生臭い傷口の縫目一つだけで見ても、いわば「フランケンシュタインの怪物」の系譜にある存在なのだと思われるが、ケヴィン・コスナーの役者としての貌の寡黙さは、その怪物をそのまま素直に仕草や動作で演じるに委ねていて、殊更な心理的表情芝居の余計を感じさせない。

 

ジェリコの脳裏にフラッシュバックするポープの記憶は、そのまま映像のフラッシュバックとして簡易に、感情の交流や情報の錯綜もほぼセリフにあずけられて語られることになる。それらは安易とも言えるが、飽くまでアクション主体の活劇なのだとすれば、それらの安易も準拠的な話法として受容されうる。何より、この映画の美点は、当たり前の映画を当たり前に仕立てあげていることにある。だから、これでいい。

 

そして、映画の物語は、幸福へと回帰する。自分は何者か、などという賢しい問い掛けになどはしることなく、真向に幸福へと回帰するそのドラマツルギーは、それはそれで正しい。その点この「フランケンシュタインの怪物」は怪物から人間になり遂せたことになるが、それを体現しているのが飽くまでケヴィン・コスナーの寡黙な貌である限り、それはむしろ肯定されうる帰結であるようにも見える。

アンジェリカの微笑み(2010/スペイン=フランス=ブラジル=ポルトガル)マノエル・ド・オリヴェイラ

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大河の河畔、夜半の街並。その景観のロングショット。それだけでもはや映画の画面。雨降り頻る石畳の路上をヘッドライトを輝かせる車が滑るように走りこんでくる。それもやはり映画の画面。何よりも音。そこで雨が雨として映画の画面を際立たせるのは、まぎれもなくそのシトシトと石畳をうちつづけるところの雨音故だ。雨音は青年を屋敷に送り届ける車の中にあってもガラスをうちつづける雨音としてひそかにその音を響かせて、この映画の世界の果てない慕わしさを暗黙の裡に印象づける。

 

縁取られること。それは世界から切り離されることだ。世界から切り離されるとは、つまりこの世のものではなくなるということであって、だから事物を縁取り世界から切り離すところの写真のファインダーの向こう側から見込まれてしまった青年は、敢え無くこの世のものでなくなることになる。青年は生活する空間としてのあらゆるものに縁取られる。窓、扉、鏡。しかし何より、フィックスで青年の生活する空間を映し出すこの映画の画面自体が、青年の存在を縁取るところの最たるものではある。窓や扉や鏡が世界の縁として青年の存在を脅かしうるのも、何より映画の画面がそれらの四角的で平面的な世界の縁取りと近似形をなしているからではないか。いったん世界の縁が青年をとり囲んでしまえば、あとは青年がその運命を逃れるすべはない。青年は夢と現の狭間で世界の縁の行き来を繰り返した果てに、昇天する。

 

音。この映画の音は、しかし映画自体が夢と現とを行き来する物語の媒体としてこそ機能するが為に、やはり世界を縁取るものとして青年をとり囲んでいるかのごとく響く。世界を縁取るものとしてとは、つまり画面の内部と外部、その狭間をこそ意識させるということであり、音が響くことで内部の空間に外部の介在を意識させる機能を発揮するということ。通りを走るトラックの轟音はその最たるものだが、だからこそ終幕、閉塞される窓の扉とともに映画は無音の世界に還ることにもなる。終始開かれ続けていた窓は、やはり異界との縁だったということ。

 

死せる女との空中遊泳。古典的なエフェクトとしての合成処理だろうこの画面の独特の浮遊感は、それ自体がやはり映画の自己批評になる。それはありていなリアリティ志向にからめとられることなく、映画は映画でしかないがだからこそ現前する夢想そのものとして現実と化すということをそこに示す。その空中遊泳の画面の如何にも古典的な独特の浮遊感あってこそ、たとえば完全な俯瞰としての高高度からの下界の景観ショットたった一つだけで、その空中遊泳が世界(生死)の縁に漂う危い戯れであることが直観できてしまう。

 

静物画的なフィックスの画面がつづく映画の中で、最も動態的なアクションが示されるのは、青年が死に至る疾走を疾走する場面ではある。疾走を疾走する青年に、しかし何も理由はない。青年自身の内心にはあったのかも知れないが、しかし映画を見る者にそれが了解される様な仕方ではなにも描かれない。それは映画の中では全く以て予定調和に、死に至るための疾走でこそあり、だからそれは言い換えれば疾走の為の疾走でこそある。そこで示されるのは、なぜかしら疾走の契機となった小鳥の死は青年の死でこそあって、即ち青年の生は(籠の中の)小鳥の生であったという寓意なのかも知れない。

最近見た映画(その05)

◎『幸福は日々の中に。』(2016/日本/茂木綾子、ヴェルナー・ペンツェル)

貌の豊かさ。と言って殊更その心理的な表情に執着する映画ではむしろない。ただ皆が皆、活きている。そのことが、その貌の豊かさの印象として帰結する。アニミズム的な、うごきまわることの生命の印象。

「ノーマル」でなく「スペシャル」であるというその言及のありようが、なるほどその通りに、画面に登場する貌、貌、貌によってたしかにそこに生きられている。どうしてそのように見えてきてしまうのかは俄かには判らない。判らないが、現にその貌達を見れば、彼らがそこに自分自身としてユニークに活きているのは分かる。

皆が皆して叩き出す騒然たる音楽の正体不明の「圧」が映画を支えていることは間違いない。

 

〇『トリプルX:再起動』(2017/アメリカ/D・J・カルーソ)

アクションにちゃんと「展開」がある。空間を活かし、また造り出しさえする画面の、動線の確たる構成が映画をちゃんと「活劇」にする。

 

〇『肉弾鬼中隊』(1934/アメリカ/ジョン・フォード

さまよえる偵察隊、全滅す。一言で言えばそんな筋書でしかない物語なのにもかかわらず、それでも終幕、兵士達の墓標となるサーベルの刃を誇らしいように白く輝かさせずにはいられないジョン・フォード。その呆気羅漢ともした無暗な肯定へのベクトルこそ、本来の「映画」の姿なんじゃないかとすら思える。

決定的な不足は、アラブ兵の「顔」だろう。

なぜこの映画が欝展開にもかかわらず基調的な明澄を失わないのか。それは、それぞれの人物がそれぞれのかけがえのない人生を生きていることを、脚本と演出が着実に描写するからじゃないのか。

 

◎『ブラインド・マッサージ』(2014/中国=フランス/ロウ・イエ

呼吸や脈拍を必然的に印象づける接写、あるいは盲人同士が同じ空間につかの間共存しているそのことをさえ当たり前にひとつに捉えようともしない画面は、一見映画を映画でなくするようでいて、しかしそのことによってしか見いだせない生理的な交感を刻むことで、やはり映画になる。

常に開かれ続けていた青年の瞼が閉じられる時、その目の前には、見えない顔がしかしはっきりと見えている(微笑)。けっして齟齬ならず。

盲人を殊更「盲人」として描く視点は、現今の中国文化圏にそれでも息づく封建的性質の自覚的発露なのじゃないか。

 

〇『ホワイト・バレット』(2016/香港=中国/ジョニー・トー

クライマックスの為の映画かと。その為に作劇が組織されているようで、「現実的」という観点で言えば無理感も。キャラクターにあたえられているのは作劇の中の「役割」だけで、「人物」としての見えない幅を感じられない。

 

△『ネクター』(2014/フランス/ルシール・アザリロヴィック)

ふと昔年の前衛映画をさえ想起させられるような、フィルムで撮影されたのだろう短編映画。なれど音声は画面と当たり前に同期し、「現実感」に当たり前に寄与、帰依するばかりで、映画そのものとしての「素材」を露わにはしないという意味で、当たり前の劇映画でしかなく。

乳房が乳房たるような柔いもみしだきかたになんとなく女性らしさを感ず。

最近見た映画(その04)

*「ロマンポルノ・リブート」5本*

 

ジムノペディに乱れる』(2016/日本/行定勲

なんでジムノペディなのか。なんでこの男なのか。なんでだいたいロマンポルノなのか。わからない。相変わらず審美的に耽美的なソフトフォーカス。ロマンポルノとして映画として、必要なのは化粧(粉飾)でなく素肌(露呈)ではないのか。そこに生きていることのかけがえのなさ。

 

『風に濡れた女』(2016/日本/塩田明彦

艶がない。運動会よろしく人間同士が裸体でくんずほぐれつし合っても、それで映画が有体な現実感を突き抜けて映画になってくれるわけでもない。ちょっとした目線や仕草が可笑しさを生むのは判るし、実際それによる喜劇性をこそこころざしていたのならこれはこれでいいのかも知れないが、本来「濡場」である筈のくんずほぐれつに艶がないのはやはり欠点であるまいか。

空っ風に素肌をさらすような実存の震えなくしてそんな「艶」など生まれようもなく、裸体はたんに裸体としてそこに提示されるだけになってしまう。

 

『牝猫たち』(2016/日本/白石和彌

女達と男達のからみあいが艶めく。これこそ、だと信じる。女達の素肌が人生の影、物語の艶を帯びて、巷間にのたうつことの切なさをにじませる。一見すればだらしなくみだれているようでも、それでも不意に示される一片の情理の発露が、実存する人間としての艶となってその素顔の肌理となる。

ふと風が吹く。なぜかしらその場面に風が吹き、木の葉を揺らすことの映画的なざわめきが、確かに相応に映画を映画にする。物語が、人生が映画の中で人物の実存として生きられているからこそ、そんな瞬間もまた可能になる。

 

『アンチポルノ』(2016/日本/園子温

画面の中で演じられているものが、すぐさま舞台劇的な閉塞感に翻訳されてしまう。劇中劇的なメタフィクショナルな構造で自覚を見せ掛けてもアリバイにしか感じられない。

映画が風俗として巷間に居場所を喪った時代の、如何にもそれらしい密室性(密室的性風俗)。出来のいいフィギュアみたいな冨手麻妙の肢体(それはそれでいいんだけど)。

 

『ホワイトリリー』(2016/日本/中田秀夫

ドラマが上滑りするように見える。恐らくは、同性愛的な性戯を演じる女優と女優が映画の中で拮抗する人物同士として捉えられていないから。象徴的なのは準ラストシーンで、落涙して「先生」の元を去る飛鳥凛のクローズアップに対して、「先生」である山口香緒里への切り返しのクローズアップがないこと。この二者のそれぞれをそれぞれに描くことをしなければ、ドラマは(文字通りに)ひとりよがりな女の独白に似たものにしかならない。人と人とがからみあうのでなければ、なんの「濡場」か。

 

***

 

いわゆる単なるポルノグラフィならぬ「ロマンポルノ」に必要なのは、「触れ合うこと」をこそ描くことなのじゃないか。役者(とくに女優)が素肌をさらすことの意味がかわってくれば、それをめぐるところの画面の中での肌理自体も相関的にかわってくるのだろうが、それでもエロスがエロス足り得るのは、それが「触れ合うこと」の表象であるからなのじゃないか。それが、素肌が最高の衣装となるように裸を撮る、ということになるのじゃないか。

たんに服を脱げば裸になるのではない、ということ。服を脱ぐことが何を脱ぐことになるのか、ということかも知れない。

SHARING(2014/日本)篠崎誠

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山田キヌヲという主演女優の寝ているのか覚めているのかわからないような表情が第一印象。寝ているのか覚めているのかわからないのは、しかし映画自体の筋書がそうさせているのやも知れず。寝ては覚め、覚めては寝て、どこまでが夢だか現だかも判然とせぬなかで映画の筋書はつづられる。だいたい映画なんてそんなもの(夢現半ばのもの)だろう、とは確かに言えるが、映画がそんなものでありうるのは、映画が現実に似て非なる(似非)現実であるからで、その似て非なることのバランスが現実との見え難い相関を失すれば、映画はたんなる絵空事と認識されることになる。

 

悪夢を見ることを繰り返すこの映画は、この映画自体が悪夢であることの示唆を含んで終始する。寝ては覚め、覚めては寝て、しまいには半ば夢を見る為に寝るかのように寝ることさえする主人公は、いったい映画の中で何をしたのかと言えば何もしていない。映画の舞台はほとんどが大学の構内に限られ、その中で同じ様な追走場面が繰り返し演じられ、若者たちは直立し孤立した影をたたえてうろつきまわり、たたずむ。

 

タイトル″SHARING″の意味は一般に「共有」ということになるのだろうが、またそれは言い換えれば「分有」でもある。となれば、それは同じものが分かたれることの意味をもはらみうることになる。であるからか、この映画には同じものが分かたれる「分身」のイメージも見出されることになる。「分身」のイメージは無論それそのままの“分身”や、あるいは双子の人物として登場しもするが、それを言うなら、だいたい同じ様な場面が反復して展開されること自体、時間的な「分身」のバリエーションとも言えるし、それは更には、可能世界意味論的な可能態と現実態のバリエーションとも言える。

 

起こったこと(起こらなかったこと)と起こりえること。すべての可能性を現実的に含蓄し得るのは、私らの日常の生活の中に於いてはただ「夢」だけかも知れず、だからこの映画がそんな夢のモチーフを反復的に展開するのは、その意味で正しい。しかし、そのためにこの映画は、切迫した現実からは遠ざかることしかできなくなったとも言える。「切迫した現実」という認識の型自体が虚構の紋切型でしかないのかも知れぬが、「夢」の不安におののくことしか描かないこの映画は、「夢」の内部に自足したまま終わる。

 

この映画には111分版と99分版があるとのことだが、一部要素を削ることでそれでも双方の映画が成立してしまうという事実自体が、この映画が決定的な「物語」の枠組を有していないことを証していやしないか。双方が映画として独立して成立してしまうことは、映画の示す帰結それ自体の希薄を証だてているのではないか。たとえば映画の最後のワンシーンが決定的な意味をもつのは、映画=物語の全体がそのワンシーンの決定性を裏打してこそであって、それを欠いた最後のワンシーンは、それがどれだけ衝撃的でも、所詮そのシーンだけの衝撃でしかない。現実はそんなものではない、というつまらない現実的な一言に、その衝撃は拮抗できない。

 

見たそのままの映画的な印象として感じるのは、被写体がキャメラとの緊張関係を生きていないように見えるゆるさ、だろうか。それは役者が口にするセリフの抑揚の深浅にまで波及するものだと思える。画面の中で被写体とキャメラの緊張関係が生きられなければ、たんに話している人物をただ撮影しているだけに見えてしまう。とくにキャメラ目線の女性陣の執拗さに比べて男性陣の希薄さが悪い意味で際立つ。