映画に

見たものについての覚書 印象をピンで留め置くように

ぼくの伯父さん(1958/フランス=イタリア/ジャック・タチ)

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道を行く形さまざま色とりどりなれどどことなく同質感のある車達が描く調和的動線。のちの『プレイタイム』や『トラフィック』はとり合えずさておくとして、この映画のユーモアの肝は、一方にはその動線支配にあるように見受けられる。

何よりまず車達の動線。何台もの車達があのいかにも即席に映画の用途で引かれましたというような道路の車線や路面表示に従って整序並列しながら集団で行進する様子は、何よりこの映画の(もはや「演出家」の領分を越えた)「統括者」の志向(=嗜好)がその動線支配による運動統括の欲望にあることを感じさせる。道を行く車達は常に粛然として進むべきところを進み、また止まるべきところに止まる。それらの動線支配の志向がその道路の車線や路面標示によって見る者の前にあからさまに示されていることこそ、まさにこの映画のユーモアなのではないか。本来ならむしろ乱雑にうごめくままになるのところのものを指示の通りに動かして見せて、それがまさに指示の通りに動かされていること自体を明らかに示すこと。

そんな動線のユーモアは、主人公ユロ氏の歩行運動をめぐっても見受けられる。まずユロ氏がアパートの階段を昇り降りするに、そのアパートの全体図を断面的にデザインして画面に向けて展開して見せようとすることにも、その動線全体を画面に明らかに示そうとする志向が垣間見える。そこではマンガのコマ割りのように区切られたあちこちの空間からユロ氏の歩行運動が断片的に見え隠れすることで、逆説的にその動線が強調され、また静止的なコマとコマの間をユロ氏の歩行運動が通り貫いていくことで画面は動態的な活況をも呈することになる。無論これはアパートにとどまらず、ユロ氏の妹夫婦の新築邸宅の中でも演じられ、そこではユロ氏及びその周囲の人物達は常にその庭の中でそこここの敷石の上を歩き回ることを不自然なまでに強制される。敷石をはみ出さないことが歩行の条件であるかのように、人物達は庭の中を歩き回る。

あるいはそれは工場や路地を舞台にしても同様で、たとえば工場の中で生産されているものがホースなのは、それがまさに長く伸びる物体だからではないか。長く伸びる物体だからこそそれは動線を意識させる媒体としてこの映画の工場の中でうごめくに相応しいオブジェとなる。またたとえば路地を走るのが犬ころ達であり子供達であるのは、それらが複数性を帯びているからではないか。複数性を帯びていればこそその動線は単体の運動にくらべて縦横的な連続性を見せて逆説的に動線の存在を意識させることになる。

ともあれ、そんな出来うるかぎり統括された、進むべきところを進みまた止まるべきところに止まるという動線支配がなぜユーモアに通じうるのかと言えば、それがじつのところ原理的に貫徹されえない支配だからではないか。それが原理的に貫徹されえないのは、何より映画は現実に存在するものの運動を捉えることでしか映画になりえないものだからだ。原理的に貫徹されえない支配がそれでも支配として明らかに示されることは、倒錯的なユーモアになる。ユロ氏の飽くまで生身の覚束ない前傾姿勢の足取りが、ちらほらと見え隠れする窓や隙間のむこうで必然なのか偶然なのかもよく判然としない動線を辿ってひょろひょろ歩き回るだけで、現実に存在するものの運動が統括された支配の中で蠢動するさまがむしろ判然とする。これはやはりユーモアだ。

 

たとえば妹夫婦の新築邸宅の庭ににょっきり立つ魚のオブジェ、それがことさら笑いのタネ足りうるのは、それが散発するともすれば醜悪とも言えるその水しぶきの音の滑稽にもその一因がある。つまり音の効果。この映画のユーモアの肝、そのもう一方はそんな音の効果にこそある。しかしこの映画の音はふつうの意味ではごく抑圧的に制限されている。その場面によりけりの尤もらしい現実的な環境音は積極的に排除され、映画の中で実際に頻繁に響くのは人物の歩く足音だったり、物と物が当たったり擦れたりする音だったりする。それらの音は直接画面に映し出されていない物からも響きはするが、音自体が言外の符丁のように、マンガに於けるオノマトペのような記号的な感触でもって画面の中に機能するよう配置されてある。オノマトペならばそれは人工的なオブジェの一種であり、その意味で映画のフォルムはサイレント映画に似通うことになる。実際、人物達は会話もするかも知れないが、その会話も何かしら音自体の響きを前提にセリフ回しや役者の声音そのものが選ばれているように響く。

それが少なくともトーキー映画的でないと言えるのは、何より主人公ユロ氏の造形にこそ現れているようにも思われる。まず彼はほとんどまともに喋らない。あるいは何か言いたげでもほとんどの場面ではものを言い淀み、言い噤むその声音がかすかにもれるだけ。また彼はまったくクローズアップされない。クローズアップされないということはその表情が心理的に解析されないということで、これもまた彼のキャラクターをある程度決定づけている。そして彼は足音をさせない。とくに抜き足差し足しているわけでもないのにほとんどの場面で彼は足音をさせない。結構な頻度で歩き回っているにもかかわらず、彼に足音をさせないのは明らかに自覚的な統括で、それもやはりこの映画の中に於けるユロ氏というキャラクターを暗にある程度決定づけている。

 

ユロ氏は、セリフなし、アップなし、足音なしの、匿名的な、でなければ自己抹消的なキャラクターとして映画の中を動き回る。そのありようは「寅さん」的なダンディズムにも通じる。一方で動態的にサイレント的な映画ではあっても、また一方では軽快な楽曲をも画面の展開に活用するこの映画は、ともすればかつての日本の正月松竹映画のような朗らかさを偶さか垣間見せもする。

ある場面間の繋ぎ、カット替わって軽快な楽曲とともに祭りの出しもののような花飾りが画面にアップで映し出され、つぎに画面はその市場全体のにぎわいをロングショットで映し出す、その連鎖の示す豊かさの感触。

先日まで幼く子供じみていた少女がまるで大人びてユロ氏の前に現れようとする場面、少女とアパートとを捉えた何気ないトラヴェリングショットがその独特のゆるやかな移行で世界変質の瞬間をほのめかす、その持続の示す豊かさの感触。

最近見た映画(その12)

〇『関ケ原』(2017/日本/原田眞人

たたみかけるようにセリフを捲し立てつつ動き回る役者、またそれを細かいカット割りで見せ続ける画面がとかく忙しなく見る者の意識につきつけられるが、そのぶんやはり視線にとどまるところの像は結ばれにくく、忙しなさからしてその人物群像もまるで現代の会社組織人達のそれのようにも見えてくる。

たとえばまともな視線の切り返しがどれだけあったか。主役であるところの三成と家康との間にさえそれはない。あるいはそこにそれがないのはむしろ自覚的な演出でさえあるかのように、三成も家康も敢えて互いから視線を逸らすように見える。人物群像を捌きつつ敢えて個と個の決定的な対決の場面は描かなかったのは、「関ケ原」にまつわるドラマを集団劇としてのみ構成したかったからかも知れない。

だがそれで、いったい人間の歴史なるものは動くのか、とは思える。終幕に三成がのたまう「正義」とやらの内実がどれだけ見る者につきつけられたか。あるいは歴史なるものはともかくとして、映画の作劇として大事なセリフがその内部に根差していないように見えるのは、まず失敗なのではないか。

 

〇『機械』(2016/インド=ドイツ=フィンランドラーフル・ジャイン)

YIDFFコンペティション作品。

映画の冒頭から、キャメラがインドの織物工場の内部を縫うように進んでいく。その中で垣間見える工場内の具体的なディテールは、たしかにあちこちにカットを割るよりもそのなめらかなトラヴェリングの撮影の持続に於いてこそ(それがたとえステディカムだったにしても)、如何にも工場内に流動する独特の空気のようなものを見る者に把握させうるように見える。そして薄暗く翳って見えるその工場内に於いて、インドの労働者達の黒い肌が如何にもつややかな汗の玉をしたためつつを立ち働き、あるいは黙して座し休み、またつかの間ぐったりと寝転がりもするその様子は、工場の産物である色鮮やかな織物のなめらかな質感に柔和に包みこまれるように描出される。審美的ではあるかも知れない。しかしその映像的な独特の空気の把握は何かしらある程度たしかな感覚を感触させもする。

余談的には、監督はインドでは裕福な家庭の出身で幼少の時分から自家の経営する工場の内部を散策して歩いた原体験的な記憶があるそうで、あるいはこの映画の工場内の描写の、社会的な主題性には沿わないようにも見える官能的とも言えるイメージの豊かさは、そんな原体験的な記憶に由来する感覚の賜物ではあるのかも知れない。

 

◎『オラとニコデムの家』(2016/ポーランド/アンナ・ザメツカ)

YIDFFコンペティション作品。大賞受賞。

ドキュメンタリー映画ということになるが、しかし実際の画面に映るオラという少女にせよその弟のニコデムという少年にせよ、あるいはその父親、母親、友人たちにせよ、全くキャメラの存在というものを意に介さないというのは、どういう賜物によるものなのか。ともあれ、キャメラはそこにあり、あまりに自然な「役者」達の実存をくまなく画面に収めていく。

たとえば家族がつかの間そろって屋外のテーブルを囲んで食事するシーンがある。そこではよくあるホームドラマよろしく、キャメラの位置はちゃんと囲みを開くかたちでそこに据えられている。それはまがうことなき演出的示唆の痕跡の一部ではあるが、そんな「演出」は、じつは映画の始祖としてのリュミエール映画にだってあったわけで、そのリュミエール映画がだいたい劇映画なのかドキュメンタリー映画なのかを問うことに意味がないとすれば、この映画がそのどちらなのかを問うことにもあまり意味はないということになる。要はそれを見る者は、ただ劇中の「役者」達を見入るに専念すればいいし、実際見入るに値する魅力的な素振りをその「役者」達は演じてくれる。

自閉症の弟ニコデムが風呂に入っていると、姉オラと父親がなにやら別居している母親のことで口論している。口論しているその音声をオフに響かせつつ、キャメラは飽くまでバスタブに身を沈めてその口論に耳をそばだてているニコデムの姿を接写で捉える。この映画の演出は、つまりこういう機に臨んだ選択を可能にする対象となる家族との距離の圧倒的な親密さの賜物なのかも知れない。そんな圧倒的な親密さを保ちつつ、けれどもドキュメンタリー映画の取材者は、飽くまで対象となる家族の関係に直接的には介入しない。

キャメラの存在が全く対象の日常に溶けこんでいくことで、なんの作為もないまま素の人物が画面の中で「役者」に仕あがってしまう。取材者が最低限ほどこす演出的示唆もまた日常に溶けこんでいるからこその紛いなき現実、その結実としてその画面はあるかに思える。

 

〇『山の焚火』(1985/スイス/フレディ・M・ムーラー)

姉弟、父母、祖父母の三世代、三組の男女だけが人物として登場する。

山間の谷間を挟んで遠く離れた祖父母の家の様子を姉弟は双眼の遠眼鏡を使って眺めやる。あるいは弟が手鏡に太陽光を反射させてちょっと離れた場所にいる姉に合図したり、祖父から託された拡大鏡で弟は祖父や姉の顔をのぞき込む。また姉弟が許されざる結びつきに身を委ねようと抱き合う時、姉の姿見がその狭間にさしはさまれる。それら「見る」道具を介することで現に何が見出されるのかと言えば、けっきょくは自分とよく似た家族や、あるいは自分自身の姿であったりする。姉と弟は成行の中、奇妙に自然にそんな関係になるが、しかし夜のあけたその臥所の中で、不意に二人は互いに目と目を見合わす。

雨、風、あるいは霧や雪という自然現象が、やがて超自然的ななにかをひきよせるかの如くに描かれる。なぜなのか判らない。判らないが、この世界でならそんなことが起こっても不思議ではないという世界がたしかにそこに映し出される。

単なる性的嗜好としてのそれではない、愛執の実現としての近親相姦はじつは人間本来のありかたなのではないのか。この物語に描き出される、父母を殺めて子供達が新たな父母となりかわる閉塞された世界は、ふたりにとって地獄であると同時に天国でもある。生きることを欲しながら同時に死ぬことをも欲するような、外に向かって開かれることを欲しながら同時に内に向かって閉じることをも欲するような、そんな自己矛盾する欲求がしかし倒錯ではなく人間本来のありかたなのだとしたら、その社会性に背く個体としての欲求は抑圧されねばならず、故に禁忌となる。何やらそんな思案をひきだす物語ではあり、その物語が息づく世界を映画はたしかに構築しえているかに見える。

 

△『彼女の人生は間違いじゃない』(2017/日本/廣木隆一

 たとえば、長廻しがカットを割ってショットを見出すことが出来ないが為の長廻しに見え、クローズアップがショットとして人物を示すことが出来ないが為のクローズアップに見え、人物達のセリフ回しは如何にも説明的に聞こえ、また不意に挿入される原子力発電所や核廃棄物処理場の映像は具体的な物語へ止揚されることもない。情緒的、恣意的に過ぎるのではないか。

新潟や福島といった地方と東京との距離関係の意識は、たぶん外国に住む人間には判らないものではある。その意味では飽くまでもローカルな映画ではある。だがだとすれば、この映画はもっと具体的に場所と場所との関係、その懸隔をこそ描き出すべきではなかったか。それをほとんど人物のセリフなどを介した示唆的な描写だけにとどめるのでは不足と思える。

 

〇『ベイビー・ドライバー』(2017/アメリカ/エドガー・ライト

ミュージカル映画とMTVの違いはどこにあるのかと思案するに、恐らくミュージカル映画はアクションを契機として音楽が牽引されるのに比し、MTVは音楽を契機としてイメージが喚起されるところにあるのではないか。MTVでもアクションがイメージとして画面を跳梁することはあるにせよ、それは音楽主体であるだけイメージとしてまず流通しなければならず、であるからにはその映像は音楽に従属的であらねばならない。ミュージカル映画はむしろ役者なら役者の具体的なアクションを契機として音楽が牽引される。タップ音が鳴るのは足がタップを踏むからであり、その逆ではない。これはミュージカル映画の音楽は映像に内在しているということでもあり、その意味ではミュージカル映画に限らずすべての映画は音楽を内在するとも言える。つまり映画はそのサイレント時代からして音楽を潜在的に胚胎していたということ。

このカーチェイス映画の映像は、音楽に従属的に展開されるその意味ではMTV的だと言わざるをえない。アクションが音楽を喚起するのではなく音楽がアクションを喚起するという仕掛けは、映像独自のリズムやタイミングに由来しない。それはアクションに直結していないという意味ではエモーショナル足りえない。むしろ主人公が一時的に車を降りてつかの間自力で走り回り逃げ回る場面の方がよほどエモーションを喚起するように見えるのは、何より具体的なアクションがそこにあるからではないか。もしカーチェイスでよりエモーショナル足りえるアクションを期するなら、主人公の青年はもっと悲痛な程に徹底した音楽狂かつ運転狂であるべきだったのではないか。つまり音楽と自動車と怪物的に一体化した実存としてそこに活かされるべきだったのではないか。

一言で言えば生ぬるい。

三度目の殺人(2017/日本/是枝裕和)

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たとえばある人の貌をずっと見つめ続けていると、そのうちにその人がその人である処のその貌の印象が、中心化すると言うよりはむしろ分散化し、その人がその人であった処の印象そのものを見失う、といったことが生じうる。ある人の貌は無論その人の心理的な動静の表象かも知れないが、であると同時に、その人がその人である処の存在論的な表徴そのものでもあり、その貌の印象を見失うことは即ちその人の存在を見失うことでもある。

画面の中で、福山雅治福山雅治のまま福山雅治でなくなり、役所広司役所広司のまま役所広司でなくなり、広瀬すず広瀬すずのまま広瀬すずでなくなる。キャメラから具体的な貌に向けられた凝視が画面の中に数瞬そんな様態を産み出す。表情は無論その心理的な動静を表象しながら微妙にうごめいているが、うごめいているその隙間、狭間の数瞬、あるいはその瞬間の全体の中で、不図、貌は貌それ自体として画面にその存在を露わにする。それはその貌の既知の印象を見失うことでむしろ未知の存在の痕跡としてのその貌それ自体を見出すことでもある。

貌のクローズアップが交錯するこの映画の画面が、それでもその画面の強度と深度を保ち続けるように見えるのは、最早その産物が演出の領域なのか演技の領域なのかも判然としない接写に果敢に挑んだ結実ではあるのかも知れない。そう足り得たのは、具体的な画面構成を為し得ざることからの接写ではなく、目前にあるものそれ(貌)自体を既知ならぬ未知のものとして把握する欲望としての接写であり続けたからではないか。その接写は、画面の中の役者の貌をその人自身の貌に還元し、還元しながらしかしその役割を演じる限りに於いてのみ画面の中に許容する。

人物の貌がその心理的な表象の在りようから遊離すると、その口から語られているはずのセリフに於ける声音と言葉もまた、その心理的な表象としての在りようから遊離するかに聞こえ始める。その人物が発しているはずのセリフが、不図、その貌のずっと奥底の闇から放たれた響きのようにその場にこだまする。匿名的な、しかし具体的な声音と言葉。

 

たとえばある人が流した涙の「真偽」は誰にもわからない。流した本人にすら本当にはわからない。なぜならそれをわかるために私達が必要とするのはつまるところはどこまでも文脈依存的な「物語」でしかないからだ。劇中、重森(福山)の娘が流した涙の由縁はあきらかにされない。それが演技であるかないかを問うことは、そのままそれが映画の中で演じられている虚構であるという意識に直結せざるを得ない。直結せざるを得ないその挿話を敢えてもり込むこの映画は、つまり作劇の骨子としての裁判劇をそのまま映画論的言及に見立てることを目論むものでもあるだろう。三隅(役所)への「空っぽの器」という言及は、如何にもそれらしい象徴(十字)の設定や、接見室での鏡像化や二重化の演出で、説話論的言及としてのみならず、映画論的言及としても見做されうることになる。

しかし、このような映画論的言及を意識する作劇は、そのぶんだけ映画を率直な現実性から遠ざけもする。率直な現実性とは、たとえば映画のジャンル的な形式性であったり物語的な具体性であったりするだろう。映画はなにより、本来はそこに存在するもののカタチやうごきをこそ捉えようとする率直な欲望にこそ根差したものであるはずで、具体的な貌を凝視しつつ、そのじつ予定調和的にはじめから「空っぽの器」としての映画を志向することは如何にも倒錯した話でしかない。ことのはじめから具体的な貌をもたない者が鏡をのぞきこんだところで何も映らないのは当たり前のこと。映画がそんな「空っぽの器」でしかないことはもとより当たり前のことでしかない。それを今更に反芻することの意義はあったのか。

 

具体的な貌への凝視によって既知だったはずのものを未知のものへと還元するその画面が、恐らく図らずもその貌がその貌たる由縁を脱色してしまう。脱色された貌それ自体はしかし結局何者かへとさらに還元されることもなく、作劇上の予定調和として「空っぽの器」という観念、即ち映画それ自体の似姿へと回収されてしまう。

最近見た映画(その11)

〇『ザ・マミー/呪われた砂漠の王女』(2017/アメリカ/アレックス・カーツマン

夜の場面が多く、また主な舞台が英国とあって、画面は基本暗色濃厚だが、そのぶん映画は冒険活劇的と言うより伝奇ホラー的な色合を帯びて面白味を見せる。

「死者」という共通項に於いてエジプトの王女に十字軍の騎士達が傅く図なんぞはキリスト教的世界観なりの倒錯的な異文化憧憬の感性が息づくようで何気に稚気に富んでいる。ジキルとハイドに分裂するマッチョな博士だの始終死生判別つかぬままつきまとう仲間だの、何より善か悪かの決断をいきあたって迫られる主人公だの、文化的な硬直をまぬがれた作劇の構造も豊か。

基本なりゆきがいきあたりばったりなだけに始終走り続けることを強いられるトム・クルーズは、微妙に年嵩が気になり始めたとは言え、やはり適役。

 

〇『ハクソー・リッジ』(2016/アメリカ=オーストラリア/メル・ギブソン

ハクソー・リッジでの戦闘場面、カットの構成に於いて基本的に攻め手のアメリカ軍を画面の左手から進撃させ、守り手の日本軍を画面の右手から応戦させることで、混戦に陥った状況でも見る者は無用に混乱せずに済む。あとは双方の図の切り返しを繰り返しながら、そこに正面からの図を挟んでいくなりして戦場のイメージが造形される。

 

〇『おとなの恋の測り方』(2016/フランス/ローラン・ティラール)

男女の交情のもつれ、その場面を描くに道具立てとして雨を降らせるにしても、まず音からして雨を降らせていく。室内の場面で外に雨が降り始めたらしい音が響き、そして場面が切り替わるとやはり泣き顔のヒロインが乗る車のフロントガラスに雨粒がうちつけている。細かいことだが、きちんと画面の中に物語を造形する演出の仕事。

 

〇『ハートブレイク・リッジ/勝利の戦場』(1986/アメリカ/クリント・イーストウッド

クリント・イーストウッドの軍曹と若い海兵隊員達のシゴキのくだりは、ほとんどハイスクールのクラブ活動みたいな基本能天気なやりとりに見える。むしろ大人の物語を感じさせるようで印象的なのは、軍曹と元奥さんとのくだり。ラストシーンで元奥さんが小さく振って見せる星条旗の奥ゆかしさこそクリント・イーストウッド本来のパトリオティシズムのイメージなのではないか。

また軍曹の「朝鮮戦争の英雄」という設定は、『グラン・トリノ』にまで繋がるキャラクターの系譜をも感じさせる。

 

△『ワンダーウーマン』(2017/アメリカ/パティ・ジェンキンス

女戦士のアクションの基本となるのは剣と盾と鞭。その中で最も見どころを形作るのは盾、及びそれに類する腕輪だろう。盾、及び腕輪は何より敵の銃弾を弾いてみせる。無数の銃弾の軌道が盾、及び腕輪と交錯する瞬間に、接近戦の防具が本来有利な筈の距離を介した銃器による攻撃を掻い潜ってみせる、この映画のアクションの基本的な快感はそれ。

完全無欠な「神の子」ワンダーウーマンの敵役は、同じく「神の子」な“兄”様なんかであるよりは、 あの「魔女」であるべきだったのではないか。自らの女性性に深刻な瑕疵を被っているかに見える彼女が人間の女としてワンダーウーマンの前に立ちはだかってでも見せたほうが、女戦士を主人公にした物語としては正当だったように思える。

 

△『昼顔』(2017/日本/西谷弘)

ヒロインが思慕の相手を思わず知らず「〇〇先生!」と呼び、またその相手も妻から「くん」づけで呼ばれて頭髪をかきみだされる。それだけでそのふたりが如何にも「コドモ」でしかないのだということが判る。それはやはり演出なのかも知れないし、また決定的な契機に至るまでヒロインが幾度も大事な処で逃げるように顔を背ける仕草も、やはり演出なのかも知れない。そんな人物が決定的な契機を経ることで生まれ変わるように独りの人間として確かに生き始める、これはそういう物語なのかも知れない。しかしだとすればあまりに迂遠ではある。

「コドモ」でしかないヒロインが、「コドモ」でしかない思慕の相手と、「コドモ」のまま演じる痴話は、やはりありきたりな痴話でしかない。人生の瑕疵を自らの心身で負うことのない「コドモ」に人間の相克のドラマを演じることはやはり出来ない。あまりに迂遠。

 

◎『トリュフォーの思春期』(1976/フランス/フランソワ・トリュフォー

冒頭、階段や坂道という斜面を怒涛のように集団で駆け降りていく子供達の図は、その駆け降りていく運動自体の躍動なり、あるいはまた駆け降りていく場面ごとの構図なりからして、映画の映画足る問答無用の幸福を体現しているようで、いわば見目麗しい。

舞台となる街ティエールは決して平坦な街並ではなく、映画の中にはあちこちで斜度や高低差が意識される画面が見出される。斜度や高低差は、何より冒頭の場面が示す通り被写体としての子供達の運動を積極的に喚起する。上がったり下がったり、見上げたり見下げたりすることが画面にアクションの契機を生む。マンションの場面で窓が作劇的に活用されるのも同様な効果を画面にもたらすからだろう。幼児が窓から転落する場面でも、事前に子猫を窓縁に落としておいて観客の意識を危険に誘導しておいてから、徐に幼児を窓から転落させる。そのサスペンスの段取の何気ない巧妙は、やはり窓の作劇的な活用による。だいたい映画自体虚構でしかないのにその場面が観客にサスペンスを喚起するのは、窓をまず内側、また外側から撮り、そしてロングショットに引く瞬間の割り振りを自覚的に演出したからだろう。

幼児は落下し、そして驚くべきことに無傷でころりんと起きあがって笑う。全く以て奇跡とでも言おうか、あるいはでたらめとでも言おうか、しかし映画はまさにそんな問答無用な瞬間で出来あがっている。そんな、ウソがマコトに化け遂せる瞬間こそ映画なのだと、とりあえず言うしかない。

ダンケルク(2017/イギリス=アメリカ=フランス=オランダ/クリストファー・ノーラン)

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画面に水平線が広がる。そしてその水平線はそのまま映画の画面の基本的な水平軸ともなる。そしてその水平軸が、ときに戦闘機の機体、ときに艦船の船体に固定された画面の中で、左に傾き、右に傾き、つまり動転する。

本来なら直立する人間にとって世界の安定的な水平軸となる筈の水平線が、しかしここでは左に右に動転するものとして映し出される。沈没する船体に於いて世界が倒錯的に反転する表現は海難ものの映画にはつきものだが、ここでは艦船の船体に固定された画面によって船体ではなくむしろ水面こそが傾く。水平線の持続的な延長としての水面が、倒錯的に反転することで、世界そのものの暴威として無数の無名の兵士達を呑みこんでいく。戦闘機の機体に固定された画面も、水平線の左へ右への動転をこそ映し出すことで、世界の中に視点があるのではなく視点の中に世界があるという閉塞感をこそ表象する。無数の無名の兵士達とは異なり戦闘機のパイロットは熟練者であり、そんな閉塞感に呑みこまれてしまうことはないとは言え、一旦機体が水面に不時着すれば、たちまちパイロットも自らを呑みこもうとする世界の暴威そのものとしての水面に立ち向かうことを強いられる。

 

この映画の人物は饒舌には物を語らない。陸、海、空の各個のパートの時間軸が錯綜する時制の中で、人物達は互いに言葉をかけあいこそすれ、それらのセリフが尤もらしい対話を構成するわけではない。尤もらしい対話を構成しない、あるいはし得ないのは、むしろその分断された時間軸が錯綜する時制にも要因はあるやも知れず、物語の中の事象は帰納的に救出のタイムリミットへ予定調和的に回収されるから、対話が物語を推進させる現在時制の緊迫性はむしろ希薄になっているのではないか。

セリフの抑制された、あるいはCGによる描出の排除された作劇的、映像的な演出は、しかし映画の画面を構成しえているのかと言えば、疑問はある。ここには、いわば「物」は何も映っていないのではないか。「物」とはつまり、物語を推進させる有機的な構成物のことでもあり、それと同時に物語を逸脱する“それ自体”としての被写体のことでもある。たとえばある物語の中である役者がある人物を演じる時、それを見る者はそれを作劇の中のその人物であると同時に現実の中のその役者としても見る。映画の映画なるものとしての肌理、その艶は、その虚実の背反的な合一と乖離の狭間に生じうるものでこそあれ、たとえば役者の配役からみても有名無名各個の役者を「それらしい」配役でしか陳列できないこの映画には、「物」の光(虚)も陰(実)も映し出されてはいない。

 

帰投を放棄した戦闘機が最後にランディングする。敵地に不時着することが判っていても敢えてしかし懸命に着陸を期して手動する動作こそかろうじて人間の、物語の動作ではある。